Friday, February 25, 2011

授かり物は。。。。

男の子でした!!
シンボルが、ばっちり矢印で指されてます。
左下に 「BOY」 って書いてあるのも笑えます。

Friday, February 18, 2011

不思議惑星キンザザ



昨晩、何か洗い物でもしてる時に、突然この映画を思い出した。
この映画について、初めて耳にした時から20年、何故か今まで観た事が無かった。
そして昨日観たこの映画は、丁度20年間ためていた宿題を消化した様な、何とも言えないいい気分にさせてくれた。

買い物に出たヴォヴァと、そこにたまたま通りかかったフィドラー(バイオリン弾きの意)は、街角で声をかけて来た狂人と思わしき人物と関わった事で、突然遠い宇宙の何処か彼方の世界へと移動してしまう。そこは水が枯れ果てた惑星プリュクだった。そこには地球人類そっくりの人間達が、全く違う文化道徳を持った社会を作って暮らしていた。全ての社会的規約は、彼ら二人にとって意味をなさない不思議で不条理なものばかり。見た目も出身地も同じ人間の間に人種差別があったり、マッチが非常に価値のあるモノだったり。
星の住民同士は基本テレパシーで意思疎通を取っており、言葉は「キュー(罵声)」と「クー(それ以外の言葉)」しか無い。しかし、相手の思考がよめる彼等は、二人の話すロシア語をすぐに理解した。全く常識の通じないこの世界から、二人は地球に無事戻れるのか?

監督のレオニード ガイダイは、遠い宇宙の何処かになぞらえて、この俺たちの住む世界を抽象的にユーモラスに描いている。
そうする事で当時検閲の厳しかったソヴィエトの政府を欺き、体制批判を行っていたという。
しかし、本当にそうだろうか?俺には、彼は作りたい物を作りたい様に作っただけにみえる。
もちろん社会体制の批判はメタファーとして含まれているが、意図的に隠してあるというよりは、単純に体制側の人間が、この映画の言わんとしている事が分からなかっただけだと思う。この人みたいに。
そして彼の描かんとしている世界は、俺が物心ついた時から持ち続けて来た大きな疑問を代弁している。

貨幣って何?
それを発行している政府が破産しているのに、何故その貨幣がまだ流通していられるのだろう?
法律って何だ?
もし法律が自由というものを保証しているなら、そこに制約がある時点で自由という概念を自ら否定していないか?
罰金って何?
何故皆、駐禁の罰金を払ったりするんだろう?
誰に、何の為に払ってるんだ?何でそれに値段が決まってるんだ?誰が、何を尺度に決めたんだろう?
土地の所有という概念って何だろう?
土地って誰かの物なんだろうか。元は誰のモノでもなかった筈だから、何千年か前にそれを初めに売った奴が居る筈だ。誰だ、そんなゲーム始めた奴。
17歳の頃、こんな社会の基盤となっている筈のルール達の殆どが、考えれば考える程全く意味を成していない事に気がついて、俺は心底恐怖を感じた。

何で敬語って使わないといけないんだろう?使わなかったら怒る人もいるし、そもそも何故そんなものが出来たんだろう?
FUCKって単語を付けると、なぜ下品になるんだろう?それ自体に何の意味も無いのに。
Fuck youってどういう意味?アメリカ人に聞いても、誰も知らない。
ならば、何故その言葉の意味する所が分からないのに、それを言われると怒れるのかが、また分からない。
裁判官って何故、人を裁く権利があるんだろう?
パスポートとか、ビザって何?
そもそも権利って何だ?義務とは?

でも、年を重ねて、人間というモノがどういう生き物であるかやっと分かり出して来て、怖くなくなって来た。
きっと、ガキの頃の俺は、世界というものが完璧である状態をベーシックに物事を捉えていたんだと思う。
だからシステム自体に不正や矛盾が有る事に、ものすごい生理的嫌悪感があったんだと思う。
生真面目だったんだと思う。

17歳の時にこのフィルム観てても、きっと理解出来てなかったと思う。
でも、今は死ぬ程笑える。

では、英語字幕ですが、下記より全編お楽しみ下さい。

不思議惑星キンザザ part1
不思議惑星キンザザ part2

Tuesday, February 15, 2011

Robert Rodriguez 祭り



前回の最後に少し触れたが、我が家では最近、ロベルトロドリゲス祭りが勃発している。事の始まりは、El Mariach だった。

テキサス大のフィルムスクールを成績不良を理由に退学になりそうになった彼は、$7000という超低予算でこの2時間物を撮ってしまう。当初メキシコのVシネマ用に作られたものだったのだが、いきなりその年のサンダンスフィルムフェスティバルで観客賞を獲り、コロンビアピクチャーズに買い取られて全米公開される。一躍彼はハリウッドの一流監督の仲間入りを果たした。
このEl Mariachi、ロドリゲス自身がプロデュース、監督、撮影、脚本、編集と、殆ど独りで作っており、とにかく低予算で作る為に施された工夫や、撮影行程のオーガナイズが素晴らしく、また内容の微妙にB級な感じがウケて、アメリカではインディーフィルムメーカーのバイブルといっても過言でない扱いを受けている。本編も勿論面白いのだが、それよりもボーナスで入ってる ”10分フィルムスクール” が秀逸。どうやってこの限られた予算で予定のショットを撮ったかを、ロドリゲス自身が解説している。この15分程のいわば「通信教育ビデオ」は俺が学校で習った編集のクラスよりも、ずっと分かりやすく為になった。

El Mariachiでハリウッド入りした彼は、その前年に同じ賞を獲っていたタランティーノと意気投合。彼の助言通りにEl mariachiを三部作として仕上げ、彼自身と共に、当時無名だったアントニオバンデラスをスターダムに押し上げる。このDesperadoOnce upon a time in Mexicoは当時丁度ハリウッドが作るのをやめていた、70年代の低予算B級映画、通称「グラインドハウス」の復刻版というかセルフパロディもので、「ハリウッドが自分を笑う」というコンセプトがウケて大ヒット。その後、この流れはハリウッドスターが自分の過去の役柄を自分で演じるという形で影響を与え、Expendables等、今日まで続いている。

2000年を周り、今度彼がとった行動は皆を驚かせた。それまでのバイオレンス路線を180度方向転換し、ファミリー向け娯楽映画Spykidsを制作する。この映画でも彼は、音楽を含むそのほとんどを独りでこなしてしまう。しかもこれが面白い。子供向けでは無く、ファミリー向けというのがミソで、大人が観ても充分楽しめる。前作で機関銃を打ちまくってたバンデラスが子煩悩なパパを演じているのも笑える。
その後Spykidsはシリーズ化。Spykidsは、彼が彼の子供達の為に作ったファンタジーというコンセプトが見え隠れしていたが、次のSharkboy and Lavagirlではなんと、彼の7歳の息子にストーリーを書かせ、それを映画化している。小2の子供が、おそらく「あのね、そんでね」口調で語ったであろう物語は、前後のつながりやストーリーの整合性に乏しく、かなりサイケデリックな仕上がり。こんなものが映画になりうるのか、とまた唸らされた。

2007年に、ロドリゲスはタランティーノと共同でGrindhouseを制作。これは先程触れた70年代のB級映画の復刻で、タランティーノ監督のDeath proofという下らないカーチェイスものとロドリゲス監督のPlanet terrorというゾンビものの二本立て。当時一般的だった二本立てという配給方法から、フィルムのヤケや傷、当時多かった映写中のフィルム詰まりによる上映中断までを意図的に作り込んであり、ストーリーもベタベタの「あったあったその感じ」なゾンビ映画で、キャラクターとそのキャスティングもまさに「あるある」な仕上がり。当時の低予算な監督達が、それでもやりたい事が有りすぎるが故に全部を一つの映画に詰め込んだ、情熱的な感じがすごくよくプロットに組み込まれていて笑える。さっきまでサスペンスだったのに、急にサイコスリラーになり、次のシーンではコメディ、またその次は戦争モノ、そしてロマンスと、とにかくてんこ盛り。そのどれもが明らかに意図的に中途半端で、俳優陣のシリアスな演技も手伝ってもの凄く可笑しい。
俺はフィルムスクールに行って初めて気がついたのだが、ゾンビ映画とはフィルムメイカーの為にあるジャンルなのだ。さっきまでとってもいいやつだったアイツが、いきなり食べられたり、あんなに奇麗だったあの子が醜いゾンビに、なんてストーリーを、同級生たちは爆笑しながら夜遅くまで頑張って作っていた。当然出演も全員友達だから、試写会の日には、画面いっぱいに引きちぎられる友達の絶叫する下手な演技や血しぶきを観て、みんなでまた爆笑してた。

Planet Terrorの冒頭に、別の映画の予告編を入れるという、これまた70年代にはよく見られた手法を取り入れているのだが、実はその映画は、実在しないものだった。この映画、タイトルをMacheteという。Spykidsで、両親を助けに敵地に赴く子供達をアシストする、Macheteという涙もろく心優しい伯父さんというキャラが居て、ロドリゲスの従兄弟であるダニートレホが演じている。Spykidsで出て来たその心優しいmacheteが、実は殺しまくりのダークヒーローという設定のスピンオフ作品という設定(書いててややこしいな)。Spykidsを観た人達からみれば、「あのマチェテが、実はこんな恐ろしい奴だったなんて!」とそれだけで笑える予告編だったのだが、去年、その反響から遂に映画化され、これまたロバートデニーロ(イタリア人の彼の名前もロベルトと呼ぶべきだろう)やスティーブンセガール等の一流スターが、わざわざベタな役を演じてて面白い。

彼の映画を観てて、いつも思うのは、「なりきる」というのは笑える、という事。彼が笑いの対象にしているものは、ハリウッド映画のアクションスターやセクシーアイドル等、いつも「本気でなりきってる奴」で、そこに現実を知らないが故に描かれる、その人の夢や妄想が垣間見え、その妄想のディティールの甘さや現実とのギャップに笑える要素が詰まっているのだ。
これはカミングアウトを促しているともとれる。つまり、「なりきってる奴ら」を描く事で自分の描くキャラに対する第三者的な観点を表現し、そしてそれを笑う事で対象となる「なりきってる奴ら」に「お前等は笑える人達なんですよ」という明快なメッセージを送っている。そこにある種の愛情が感じられるからこそ、彼のフィルムが、ともすればキャラ攻撃と取られても仕方ない中で、大きなオーディエンスから理解を得ている理由なのだろうと思う。
そういえば、ここで延々と書いて来たロドリゲスの手法と同じコンセプトの映像を最近観た。今年の「笑ってはいけないスパイ」の中盤で流れたミニドラマ「君の瞳に両思い」がそれだ。大鶴義丹、保阪尚輝、田中律子ら90年代初頭の月9ドラマのゴールデンメンバーが、ベタベタな恋愛ドラマを演じていた。あの頃のドラマって、絶対恋愛した事ない奴が書いてた感じバリバリだったもんな。

あの頃、あれ書いてたライター達ってのは、本気だったのだろうか。それとも、爆笑しながら作っていたんだろうか?

Friday, February 11, 2011

Enter the void



東海岸は記録的な寒波と大雪、なんてニュースがチラホラ見える中、SFはもう春だ。
昼夜の気温差がデカくてキツいけど、昼の陽気も、夜のピリッとした冷たさも気持ちいい。
こんな日は、昼の散歩の後、夜、独りでチャリに乗る。
SFはご存知の通り坂の街なので、チャリ乗り達は、坂が少ない道を通って、ドライバー達とは違うマップを頭に入れて暮らしている。
当然勾配の少ない道といえば谷なので、行く方向が同じだと、いきおいそこにチャリが集中する。
その道がいつしかバイクレーンとして整備される様になった。
皆が同じルートを走るとなると、当然そこには速いヤツと遅いヤツがいて、ほぼ同じスピードのやつらもいる。
俺も最近知ったのだが、夜になると、市内の主要なバイクレーンはこういう連中の「ちょいレース」がそこら中で始まってる。
しかも、勿論そのとき一緒に走る相手にもよるが、結構距離が長くなる。
夜の5km位のスプリントレースは、結構息があがる。

今、ひとっ走り競争して、California Academy of ScieneDe Young Musium の中庭でこれを書いています。
知らない奴と自転車で競争なんて、小学校の時以来だな。最近自分の事が小5に思える。
夜中の公園で、意地になって自転車をこぎまくる37歳(中身11歳)。

これまで、自分の過去なんて殆ど気にもせずに、前の事ばかり見て生きて来た。もし仮に皆が俺と同じ様に考えていたとすれば、だから人は自分の子供の頃の記憶を無くしていくんだろうと思う。違うのかな。
そして、子供が出来た事をきっかけに、自分の過去が気になる様になった。
これは180度の観点のフリップだ。
いつまでも過去の自分を忘れたまま目の前にあるものを摂取しつづけていては、子供にモノを教えたり出来はしない。
そして、この日が来るまでにどのくらい自分という人間に多様性や深みを持たせられたかで、人は自分の価値を判断するのだろう。
やりきって満足した事、まだまだやり足りない事、やってみたけど全然好きじゃなかったのに、何であんな事やってたんだろう?みたいな事もある。
そんな事を一つ一つ検証していくと、本来自分が好きだったり得意だった事と、自分が成長する中で得て来たモノとがある事に気がついた。だから、子供にはそれを早いうちから見出して、その様に育ててあげたい。

人には、この「子供が出来る」ともう一つ、自分の人生を振り返るきっかけとなる瞬間があると思う。

それは「自分の死」だ。

死というものについてまだ人類は確たる定義を持てていない。
でも俺は、自身の過去の臨死体験や文章を通して得た情報から考えるに、仮に魂というものが存在するとすれば、事故や自殺や寿命や安楽死などのいかなる状況の死においても、自分で決意しない限りは完全に死というものを受け入れる事が出来ないのではないか?と考えている。
そう考えるには理由がある。なぜなら、「人間の脳は、一度見たものを忘れない」と言われているからで、レインマンに描かれていたサバン症候群の存在がそれを証明している。もし人がよく言われる様に、「死の瞬間に自分の人生を走馬灯の様にリコールする」なら、「人間の脳は、一度見たものを忘れない」のであれば、その人が拘り続ける限り、どんな小さなディティールまでも思い出せる能力が人間には備わっている訳で、人は肉体的には死んだとしても、その魂なり意識なりは、自分が納得するまで自分の人生と向き合い続ける事になるはずだ。

と、ここまでは俺の勝手な想像上での「死」というものだが、今日の映画 Enter the Void は、この問題をチベット死者の書を下敷きとして描いた物語だ。
輪廻転生を信じるチベット人達の死生観を、東京を舞台にそこに住むアンダーグラウンド外人コミュニティ達を例にとって描いている。
このへんの哲学的、宗教的、神秘的なモノは、今の興味の対象ではないので、内容については正直どうでもいいのだが、ヴィジュアルにはやられた。
特に主人公が死んでしまうまでの初めの30分程は、まるで自分がサイケデリックドラッグを摂っているかの様な錯覚に陥る。
好きじゃないのに今朝、起きてすぐに、また観てしまった。この映像にはちょっとした中毒性がある気がする。

まあ、また観てしまったけど、俺はやっぱりPlanet Terrorとかの方が好きだな。