Saturday, December 17, 2011

COD Zombies / Mafia vs Ninja

一時期、名作に飽きてしまいロベルトロドリゲスの映画にハマったりしていたが、それにも飽きてしまい、しばらく何も観ない事にした。「好きな事が何故か面白くない」のは、本当に辛い事だ。生きている感じがしない。

 ただ、中毒とは恐ろしいもので、急に何かを止めてみても、それまでその為に割いていた時間が宙ぶらりんになってしまって、どうも落ち着かない。その間、映画を観ずに、ただひたすらプレステで Call of Duty/ゾンビ殺しに費やしてみた。初めは暇つぶしのつもりだったのだが、これがガッツリハマった。

ハマる要素が満載だった。

精緻なグラフィック、やり込む程に制作者の意図が伝わってくるマップ、しかも丁度「飽きて来たな〜。」と思う頃に定期的に新しいマップがリリースされるため、ダウンロードすればまた新しい世界で遊べる。
キャラ達も自虐的な人種差別ネタのシャレがきいてて笑えるし、でもそのバックグラウンドにあるストーリーは意外と巨大で興味深い。。。。しかも一部はNight of the Living Deadのジョージロメロ監督が監修しており(カメオ出演あり)、ゾンビ映画ファンのハートもガッチリキャッチしている。
3Dシューターでありながら、ゾンビの動きは完全に8ビットゲームのそれで、その法則を見つけてしまえば、迫るゾンビ達を紙一重でかわしながら自由自在に動けるようになる。
この「全能感」にも似た感覚がたまらなくて、時に徹夜も挟みながら、朝から晩までひたすら画面の前に座っていた。ゼロ歳児と二人で(汗)。。。。
轟く銃撃音、飛び散るゾンビの頭。これは見せちゃダメだよな〜。情操教育上、大問題な気がする。でもやめられない。。。。

そんな、終わりの無いループに思えたゲームも、先日ついに飽きた。急に何かがリセットされたような、不思議とブランクな気分になった。

久しぶりに映画でも観るかと、近所のビデオ屋に寄ってみた。

じっくりとチェックしてみたが、これといってパッとした一本が見つからない。
こんな時は、店員の兄ちゃんに相談するのが賢い。
「最近B級映画にも飽きてて、ゲームばっかりやってたんだけど〜」などと下らない近況報告から始まって、こんな時にピッタリな映画は何かないかと勧めてもらう。
「う〜ん、それは結構重傷だね〜。」と言いながら彼が勧めて来たのはShawn of Dead等のスプーフものが何本かで、どれも決め手に欠ける。
俺はもう何も面白くないんだろうか?などと、レンタル屋の兄ちゃんに絡んでいたその時、彼の後ろの棚の一番下の段にポツンと置かれているビデオテープのタイトルが、俺の目に飛び込んで来た。

"Mafia vs Ninja"

ちょっと待て。
何なんだあのビデオテープは?と訊くと、店員全員が知らないという。
手に取って見てみると、これ以上無いほどにチープで怪しい。
忍者を謳っているくせに、キャストに日本人の名前が一つも見あたらないのも、非常にクサい。
ジャケットもこの上なく王道な仕上がり。
まるで、旅先のヤミ市で遺跡の盗掘品を見つけたときの様な、誰も知らない秘密に行き当たってしまったような、背徳的な興奮に包まれた。

これは、間違いない。今、まさにこんな映画を探しにココへ来たのだ。
運命を感じた。
貸してくれ。ビデオデッキを持っていないが、そんな事は関係ない。というと、
店員がテープを一通り眺めて一言、「ゴメン、これはレンタルじゃないよ。」という。

売り物か。いくらなんだ?というと、ステッカーが貼ってないので、店のものでも無さそうだという。
持ち主はおろか、出所も不明とは。
何とか貸してくれ、明日には必ず持ってくる、何なら俺の免許証を置いて行くからと食い下がったが、
「オーナーに明日訊いてみるから、明日のこの時間に来てくれ。」と丁寧に断られた。

 次の日、はやる気持ちを抑えきれずに早めにビデオ屋に行くと、昨日の兄ちゃんが
「待ってたよ〜!」と言ってテープをカウンターにドン、と立てた。
True Romanceのブラッドピットよろしく長髪にヒゲの、いかにもストーナーなこの男、素直に売ってくれるのかと思いきや、パソコンをカタカタやったかと思うと、
「アマゾンでは$27でうってるな〜。」と言い出した。
そりゃいくらなんでも高過ぎると交渉し、嫁に怒られながら$13で購入した。

 後日、カフェの地下室にビデオデッキがあるのを思い出し、そこで上映会をする事になった。メンツはヨルダン人のボスと俺、それにイタリア人のAliceの三人。ジャパニーズ対イタリアン。

マフィアと忍者の戦いを観るのに、これ以上無いメンツだ。
煙にむせぶ地下室で、映画は始まった。

 画面が映った瞬間から、あまりの画質の悪さに一同爆笑。かと思えば、一分も立たないうちにいきなり始まるカンフーアクション。
これが意外にも相当なクオリティの高い動きで、それにまた驚く。


 流れ者の主人公は、ひょんなことから上海のマフィアの親分を助ける事になる。彼等は今、新興の組と抗争中なのだ。
人情味のある親分は地元でも慕われている名士で、かたや新興の組は上海進出を目論む日本人と結託して、街を牛耳ろうとしていた。彼等はその手先として忍者を使っていた。
主人公は、親分の危機を得意のカンフーで何とか救ったものの、日本人達は金にモノを言わせて、今度は白人と黒人と日本人からなるプロの殺し屋を雇い、襲って来た。自分達の不在の間に、街は日本人達に略奪、皆殺しにされてしまう。
復讐を誓う中国人達。死闘の末、上海の街を日本人の帝国主義から救うのだった。

撮影は1984年。日中国交正常化が72年、日中平和友好条約が78年だった事を鑑みて、どれほど現地で反日/好日が世俗的に浸透していたのか知る由もないので、これがどれほど冗談だったのか本気だったのか量りかねるが、どちらにしても日本人の描かれ方の非道さには心底笑える。
しかし同時に、いつでもメディアが描くものは世相を反映しているという観点に立つならば、彼等の日本人やヨーロピアンに対する開けっぴろげな差別は無邪気で恐ろしくもある。

とにかく初めから終わりまで90分間、ゲラゲラ笑った。笑いすぎて疲れた。
差別を描く事で逆にあぶり出されている、あからさまな逆差別や、秀逸なカンフーアクション、疑問の多いエディット、そこここに散りばめられているゲイ的なサービスショット、チープな80年代的シンセサウンド満載(もちろん無断だと思うが日本人のシーンで喜多郎も使われてた)、おおよそ殆どの台詞が、ストーリーを説明する為に費やされているプロット等、突っ込みどころ満載のリッチな一本だった。
アクション、ロマンス、特撮、ポリティクス等、監督のロバートタイがやりたい事をぎゅっと詰め込んだ、珠玉の作品。天才じゃなかろうか。

ちなみに、もうお気づきかもしれないが、イタリアンマフィアは最後まで出てきませんでした。ごめんね、Alice。マフィアって、中国マフィアだったのね。

Youtubeに、フルで上がってたので貼付けておきます。Enjoy。

Monday, September 5, 2011

東京原発





 俺のビザも残り後1年となり、子供も産まれた事もあって、最近ウチでは帰国の話がチラホラと出るようになった。
俺の息子はアメリカ人だが、第一言語が英語ってのだけは避けたい。ヒトは言語をベースにモノを考えるので、何語をベーシックに置くかで人間性が決まると言って良いと思う。
その上に環境や地域性、文化などが複雑に絡んで一人の人格を作り上げるのだ。
二つの言語を喋るようになって知った事だが、英語を喋っているときの自分と日本語を喋っているときの自分は、微妙に違う人格を持っている。
英語を喋っている自分は、より論理的で開放的で、発言に恐れが無い。第二言語にもかかわらず、思考は口をついて流れ出す。そのかわり「行間を読む」というような作業は基本的に頭に無い。
日本語を喋っているときの自分は、より情緒的で思慮深く、相手の立場に立って考える事が出来、あいまいで感覚的な事に対してオープンだが、その反面、思考をストレートに自分の口と直結出来ない。
この二つの違いは決して俺だけの問題ではないと思う。端からみても顕著だ。
政治家から学者、はてはテレビのアナウンサーまで、日本人の殆どは単語の間に「え〜」を挟まないと喋れない。
一方、ハリウッド映画でよく見る、「カップルが怒鳴り合った挙げ句に禁句を口にしてしまって謝る」という場面は、アメリカ人には実際にある事だ。
そういった意味で、日本人のプレゼン下手は言語の所為だと思うし、ラップとは英語の文化だなと思う。
どちらをとっても、片方だけでは不十分だと思うし、両方を使える事は間違いなく必要だ。

しかし英語がベーシックでは、どうしても自分を中心に考える人間に育ってしまいそうで嫌なのだ。
文頭に必ず主語を置くという行為を繰り返すとは、そういう事なのだ。
今日、世界中にアメリカがバラまいている数々の問題の元凶は、「彼等が英語を喋る」という事と「資本主義」が二人三脚で演じていると思う。

我が子には、思いやりのある人間に育って欲しい。
その為にも子供を日本語をベーシックに育てたいので、日本に住む事が望ましいという事で、女房とも話がおおむね一致して来た。

そこにきて、やっぱり「フクシマ」の問題が、俺達の頭の上に重くのしかかってきた。
先月、政府がとんでもない数字を公表した。事故から今日まで、約170日。この間に放出された放射性物質の量は、広島型原爆の168個分?!!!
毎日一回、日本では「ヒロシマ」が起きているというのか。。。。。
勿論、上記のリンクにもあるように、大気中で炸裂する爆弾と、原発からゆっくりと流出する放射性物質を単純に比較出来ない。
だがこれは、福島の方が、より高濃度の汚染が長期間続く事を同時に意味している訳でもある。
九州の米からもセシウムが出てる今、安全な場所なんて無い気がする。

今日、こともあろうに岩手のサンマを皆で食べよう!みたいなイベントがあっていたようで驚いた。
ちゃんとココに供されるサンマは全部放射線の検査をしてあるんだろうか?
ニュースは基本的に「被災地復興の為にいい事」として福島や岩手県産の農作物や魚介類が売れる事をいい事のように報道しているが、こういう、命や健康よりも経済を優先している様な連中の言う事を真に受けている人達を見るのは、本当に恐ろしい事だ。

事故の後、こんだけ政府もマスコミも企業も、嘘と隠蔽にまみれている事が分かっていながら、未だにそれを信じていたり、ニュースで報道されている事の外側の情報を自分から集めようとしない人達がいるのは驚きだ。海外に居た方が、フィルターのかかっていない情報が手に入りやすい。



先日、ベルギーでプレイしてるサッカー選手が「フクシマコール」でやじられたと言って、怒っていたらしい。
この世でもっとも汚い物を太平洋にジャンジャン垂れ流しておいて、怒れるところなのか?これは。
今回の一件は、これから何万年も日本人が背負って行かなければならない十字架なのだ。黙って頭を下げるしかないのでは?
そしてその十字架は、汚染された水や空気や食物、土壌を通じて日本人達の遺伝子に奇形や病気の因子として組み込まれ、永遠に受け継がれて行くのだ。
もし、俺の息子が将来、福島出身の女性を結婚相手として連れて来た時に、俺は孫が健康体で産まれてくるかを心配しない自信が無い。

何でこんな事になったのだろう。俺には原因が分かる。
日本の、日本人の、そこが嫌で国を出たんだから。
何が原因なのかじっくりと考えて欲しいが、残念ながらその原因となっている連中には、それが何だか分からないだろう。
問題は、そういう連中が「いい人達」である事だ。
例えば、こういう事を、分かち合いだと本気で言ってしまえる様な。
そして、今まで連中が社会の過半数であったからこそ、現状がこうなのだ。
日本人と話していると、「普通さ〜」とか「常識では」というようなフレーズがよく出る。これまでの自分達の「普通」や「常識」が間違っていたという認識に立って、未来を構築して欲しい。

 そんな事とは無縁の、俺が問題を訴えかけている訳ではない人達には、きっとそれが何か、とっくに分かってるんだろうな。

そんな方々に、今日はこの映画を紹介したい。



Friday, July 22, 2011

Bodysong



 7月7日、七夕の日にウチの長男が産まれた。

初産にも関わらず、予定よりも2週間も早い出産だった。
当日、世界仰天ニュースの撮影で街を離れていたところに、電話があった。
夜中の1時を回っていた。
現場の皆が全力でダッシュをかけてくれて、3時前には家に着けたと思う。
そこから助産院に送ってもらい、様子を見るが、まだまだとの事でホテルに泊まる。
夜が明けていた。
俺は仕事の疲れから眠っていたが、嫁はウンウン唸りっぱなしで一睡もしていなかった。

昼過ぎ、陣痛の度に立ち止まり、休みながらの散歩をしたりして、その時をひたすら待つ。

夕方、嫁が「これは間違いないと思う」というので助産院に戻ると、どうやら体の準備も出来たようだった。
嫁の唸りに合わせて、でも落ち着かせる様にリードしながら、俺もオームを一緒に唱える。

そうこうしていると、嫁がいきみたがりだしたので、「いよいよか?」ということで湯船に移った。
ここまでは、自分の想像していた出産のシナリオ通りだった。
そしてここから頑張って踏ん張ったら、頭が見えてきて。。。。。。。

の筈が、突然、嫁が出血。
湯船に真っ赤な血がブワーッと広がって行く。
助産婦がアシスタントに救急車を呼ぶよう伝えている。
その判断の早さに、ただ事では無いという事が読み取れた。
すぐにやって来た救急車で、病院に搬送。

夕暮れの少し前の、いわゆるゴールデンアワーの金色の景色の中を、他の車を脇に寄せながら、俺たちを乗せた救急車だけが真っ直ぐに走って行く。
非現実的なくらい奇麗な光の中で、フリーウェイの全ての車が止まった不思議な光景。
サイレンの音しか聞こえない。
助手席から振り返った先に、酸素マスクを付けられた嫁の頭が揺れている。
嫁も子供も死ぬかもしれない、と思った。
その時の自分は、やけに醒めていた。一瞬で覚悟が決まった。
「神様、お医者様、どうか二人を助けて下さい。」とはならなかった。
逆に、「これが運命なのだろうか?」と、受け入れる体勢になった。
俺は、情が薄いのだろうか?今考えても分からない。
でも、うまく言葉に出来ないけれど、「仮に死んだとしても、誇らしい」というような強烈な信頼のような感覚がこみ上げて来て、俺はまるで自分が死ぬときの様に、妙にサッパリとしていた。

病院に着くと、嫁はガンガン色んな針を刺し込まれ、みるみる管とコードまみれになり、胎児の頭には心拍を測るためのセンサーが打ち込まれ、そのコードと子宮内の圧を測るセンサーのコードが股の間から延びて、ベッドの横の機械に繋がっている。あれよあれよと言う間に、おおよそ新しい命を迎え入れようと言う暖かい環境とはかけ離れた、おぞましい光景ができあがった。
そして、一定の処置が済むと、ナースが俺達に最初に言った言葉は、「痛み止め(無痛分娩)の用意は、いつでも出来てますよ、と奥さんに伝えて下さい。」だった。
彼女が悪魔に見えた。悪魔の囁きだった。

この状態から12時間、嫁は耐え続けたが子宮口は一向に開かず、結局「ゴメン」の一言で嫁はギブアップした。
いや、本当に開いてなかったのかどうかも、本当は怪しかった。
病院では、検査の度に違う看護婦がやってきて触診するので、前より開いていたかどうかは誰にも分からないのだ。
子供の心拍も安定していたし、出血も止まっていた。病院側も必要だとは一言も言わなかった。
でも結局、あれだけ拘ったにも関わらず、我が家の初産は、無痛分娩となった。

この人生の一大イベントを、二人で一緒に乗り切ろうと約束したのに、結局、嫁一人の決断で押し切られた事に、俺は猛烈な疎外感を感じながら、嫁が無痛分娩の処置を受けているのを黙って見ていた。
この日まで、ずっと何ヶ月も頭に描いて来た幸せな出産と、それに伴う二人の精神的な結び付きと、その深まり、そしてそこを基盤としてスタートする俺達三人の未来。そんなビジョンが頭をグルグルと回った。
目の前で起きている事は、そんな全てのイメージの正反対だった。
何と例えたらいいだろう。強姦によって処女を奪われた、そんな気持ちだった。

俺は、嫁の目を真っ直ぐに見れなくなった。
急に、全てに興味が無くなった。家に帰って寝たくなった。
勝手にしろ。
科学の助けを借りて自然を裏切り、陣痛から解放された嫁は、疲れからぐっすり眠っていた。
真っ暗な病室に、機械の点滅する光がその寝顔を浮かび上がらせる。
ついさっきまで強烈な信頼を寄せていた相棒が、ものすごく遠い誰かに思えた。
ずっと傍らで付き添ってくれていた助産婦が、気遣って俺を病室の外に連れ出した。
「洋輔、大丈夫?」と訊いて来たが、俺に何が言えよう。
起きてしまった事をいくら騒いでみても、もう時計の針は戻せないのだ。
彼女とはこの半年、毎週クラスを通して自然分娩について語り合った仲だ。俺が失ったものの大きさを察して、黙って優しくハグしてくれた。

 そうして拗ねていられたのも少しの間だけだった。1時間ほどすると、子供が産道へ降りて来た。それが分かると、投薬を減らそうとナースが言い出したので、俺は完全に切ってくれと頼んだが、「産むのはあんたじゃないでしょ。」と一蹴された。病室には男は俺だけ。嫁も含めて、俺の味方はもう、一人も居なかった。
急に色んな人間がやって来て、病室はごったがえした。
さっきまでの無音の世界から一転、慌ただしく色んな機器や器具の準備をするスタッフの大きな声が飛び交った。
その中、こうこうとたかれた照明の中、子供の頭が見えた。
必死にいきむ嫁。中々出てこない。
手を取って一緒にいきむ。う〜ん、と押すたびにまた戻る。
嫁は泣きが入って来た。そうじゃないんだ、出来るんだ、と言い聞かせて、もう一踏ん張り押すと、遂に出て来た。



 その瞬間の事は、言葉には出来ない。ただ言えるとすれば、「新しい人間が一人、この世界に加わったという事実に立ち会った」という巨大な経験をしたという事だけだ。今でも目を閉じれば再生できる。とてもサイケデリックでリアルな瞬間だった。感動して大泣きなどではなかった。
良い事も悪い事も含めた自分のこれまでの全ての行いに、一つの結果が出たという強烈な実感がガーンとやって来て、ある意味許された様な気持ちになって、涙が出た。

 今日、ウチの息子、古賀自由は生後2週間目。嫁の妹と4人でファーマーズマーケットを覗いた後、近所にパイを食べに行きました。毎日、おっぱいを飲みまくって、すくすく育ってます。もう寝返りもうちました。

 出産のあの日、期待から始まり、興奮、不安、思いやり、愛情、信頼、裏切り、失望、喪失と、めまぐるしく色んな気持ちをローラーコースターに乗ったかの様に経験して、最後に辿り着かされたのは、「理屈じゃねえ」という場所だった。勿論、俺が予定していた通りに出産出来ていたら、どんなに素晴らしかっただろうかと思う。そう出来なかったという事について、気持ちの上で未だに何かしこりの様な物はある。でも、そんな事で拗ねていても始まらないのだ。新生児は、毎日驚く早さで育って行く。そんな過ぎてしまった事に捕われて、今この瞬間を享受出来ないようでは、俺は人として終わっている。

そして、それは全ての事に通じて言える事なのだ。

俺は、この出産を通して "All or nothing" のような拘りを捨てる事が出来た。それは、俺がほぼ産まれてこのかた持ち続けて来た、捨てる事の出来ないプライドのような物だった。自分の想い描いた大切な夢を、メッタメタに切り刻まれた事で、また一つ生きるという事や生にしがみつくという事にリアリティが得られた気がする。

人は、無垢に産まれて来て、いつからか欲を覚え、それを満たす為に自分を忘れて行く。
失ったそれをまた取り戻す為に人は努力する。それを得るまでが、人生の前半なのだ。
その時期を青春と呼ぶのかもしれない。
そしてその涙ぐましい努力は、人がホルモンの影響下にある限り、本人が望むと望まざるとに関わらず、基本的にメーティングの為にあるのだ。
自分を忘れる程に、何かをアダプトして自分を変えて行こうとする原動力は、人に受け入れられたいという欲求に他ならない。それは、人間が社会的な生き物である以上避けられない最低限の欲求で、その最たるものが異性なのだ。
俺は同性愛者ではないので、彼等の気持ちは分からないが、少なくともへテロセクシャルであればそうだと思う。

その一人一人の一連の作業から派生して、経済や政治、社会へと波紋は広がっている。
その受精卵というミクロから、社会というマクロまでを、モンタージュで構成した作品が、このBodysongだ。
音楽はRadioheadのジョニーグリーンウッド。
素晴らしい作品だが、どうやら、日本では未発売のようなので、以下に本編を貼付けておきます。Enjoy.

bodysong 1
bodysong 2
bodysong 3

Sunday, June 19, 2011

ビーイング・ボーン ~驚異のアメリカ出産ビジネス



ウチの長男がこの世に生まれでてくるまで、後一月程になった。
嫁のお腹は増々大きくなって来て、今産まれても不思議じゃないほど張っている。
正直、ちょっとビビってる。

ウチは出産に当たっていくつか決めたプロトコルがあって、それに従って動いてる。
それは、俺が昔から決めていた事だったのだけれど、それを確信にさせる手助けとなった映画がこの「ビーイング・ボーン ~驚異のアメリカ出産ビジネス」だった。この作品は、分かりやすい歴史とデータをベースに、アメリカの狂った医療事情と、それを当然として受け入れているアメリカ人の「常識」に鋭く斬り込んでいる。詳しくは上記のリンクのライナーノーツを読んで欲しい。

ウチの出産に際しての決め事は、

1-病院での出産ビジネスには参加してやらない事
2-医学的に必要でない限り、無痛分娩や帝王切開などしない事
3-自然分娩で、産婆さんの立ち会いで、基本的に二人で産む事
4-産後は母乳で育てる事

ここで、普通の人達なら「何が特別なの?」と思うかもしれないが、ここアメリカでは事情が違う。
現在、アメリカ人の6割以上が無痛分娩で出産しており、帝王切開も3割を超え(そのうち何割かは無痛分娩とかぶっている事は言うまでもないが)、陣痛促進剤の使用は22%と、ほとんどが自然分娩で出産出来ていないのだ。実際にはその割合はもっと低いと思う。

これは問題だと思う。

もちろん医学的な理由でやむを得ない場合もあるだろう。そんなケースにおいては、「医学が進んでてよかったですね」と言いたい。ウチだって、今のところ順調だが、土壇場になって病院のお世話にならないとは限らない。
しかし、残念ながら大半の理由は、「痛いのが嫌だから」と、もう一つは「医者の都合」なのだ。
陣痛が始まってから出産までは、非常に長い時間がかかる事が殆どだ。
24時間を超える事も珍しくない。
医者の言い分としては、「いちいち全ての患者のそれに付き合ってられない」のだ。
しかもこうした医療の介入は、直接病院の収入となる。
彼等は、自分達のやっている事を「仕事」と思っているのだ。
陣痛導入剤の使用や、帝王切開と無痛分娩の併用によって、医者は自分達の就業時間に妊婦の出産を合わせさせる事が可能になった。
未だに人間は、どのようにして陣痛がそのタイミングで始まって子供が産まれてくるのかを知らない。
母体が決めるのだろうか?
それとも胎児が?
それとも両者の同意によって始まるのだろうか?
いずれにしても、そこにはその二人しか存在していない訳で、自然出産ならば誰も責める事は無い。それ以上でも以下でも無いからだ。しかしそこに医者の都合が介入してきたとしたら、どうだろうか?
胎児にとって、この世に出てくるという人生最初にして最大のイベントを、自分の同意無しに強制されたなら、俺だったら絶対に母親に裏切られたと思うと思う。


 ところで女性の体には、妊娠から出産までの間に様々なホルモンがそのステージにあわせて段階的に分泌される機能が備わっている。
いわゆる女性ホルモンや黄体ホルモンが、初期から後期までの体の変化に対応して精神をも変化させる。
ウチの嫁が太ったり大人しくなったり、優しくなったり眠たくなったり、明らかに情が深くなったりと、教科書どおりに変化しているのを見るのは、非常に楽しい。
人間というのはPCみたいなもので、OSをアップデートすると機能が変わるのだ。
人格まで変わってしまうのには、正直おどろいた。
この通過儀礼を経て、人は大人になるのだと思った。
妊娠も最終段階に入ると、オキシトシンというホルモンの分泌によって子宮の収縮を促し、陣痛が始まり、また痛みを誘発する。陣痛は回を重ねる毎に長さと痛みを増し、その間隔はどんどん狭まって行く。
母親は、この苦痛を究極まで耐えぬいて、いよいよ出産の時に生じる最大の痛みによって、沈痛の為にエンドルフィンというホルモンを一気に放出して、子供を産む。このホルモンには沈痛と同時に、快感を伴う「悟り」に近い精神状態にする効果が在り、この時に感じる快感はエクスタシーやMDMAによって得られる多幸感と同種のものであるともいわれており、経験した事のある方なら想像がつくだろう。
この、「苦痛を絶え抜いた後にやってくる開放感」と「多幸感」によって母親は子供を愛する事を自分にメタプログラムする。
これは科学的に証明された事実だ。

帝王切開や無痛分娩では、このプロセスがない。
それがどう母親や子供に影響するのか科学的なデータは無いようだが、そんな根拠を求める必要があるのだろうか?
これは母親側の話だが、子供の方はどうだろうか?

出産とは、胎児にとって初めて経験する苦痛であり、トラウマ的な体験だ。それをカバーする為にも、出産直後の母親とのスキンシップ(日本ではカンガルーケアというらしい)は欠かせない。そして一番はじめに出る母乳には、分娩で大量に放出されたエンドルフィンが含まれているため、それを呑む事で新生児は母親がその時感じている「多幸感」に似た愛情を共に感じる事となる。つまり母子共にトラウマを共有した後に快楽をも共有する訳で、この「感覚のジェットコースターの相乗り」が母子の愛情を繋ぐ事になるのだ。
そしてこの一番初めの母乳には、母親の持つ抗体も含まれているため、これを呑む事で新生児は環境に対応する。

すごいメカニズムだと思う。こんな複雑なシステムを何故考えついたのだろう?
女という生き物は不思議だ。
帝王切開や無痛分娩では、新生児は当然ながらこの恩恵を受けられない。


 先週のパパさんママさんクラスで、ウチの産婆さんが言っていた。
「痛いからといって、それは当然の痛みですよと放ったらかしたり、また難産の末、不幸にも胎児やその母親が死んだ時に、それを自然な事として受け入れる事が出来なくなった。痛ければ無痛分娩があるし、難産なら帝王切開できる。その結果、いままで成されてきた自然淘汰が利かなくなり、自然分娩出来ない体の女性達がどんどん子供を生んで、これから増え続けて行くだろう。私たちの生きている時代とは、そんな時代です。」と。
遺伝的に自然出産しにくい女性や、陣痛を受け入れる事が出来ない精神的に未熟な女性が増え続ける。。。

状況が好転しない事が分かっていても、自分の成すべき事をやり続けている彼女もまた、戦っているんだなと思った。

Sunday, April 24, 2011

Playstation Network Under Attack!!



 一昨日からソニーのPlaystation NetworkがAnonymousというハッカー集団に攻撃されて機能しなくなったままだ。
早めに分かっていた事だったが、ソニーも相手の名前を伏せた上でオフィシャルに認めたようで、今ネットワークの復旧に努めているようだが、ハッカー達はどうやらもう次の攻撃の準備を済ませているらしく、「次の攻撃は、ネットワークが復旧した時だ」と言ってるようで、どうもコチラの方が一枚上手のようだ。
おかげでCall of Duty World at War のゾンビモードがオンラインで遊べなくなって困っている。
これは本当に不便だ。いつもなら出掛けなくても友達といつでも遊べる。無くなってみて初めて気付くその便利。
何百万人のユーザーが困っているのに、ニュースになって無いのが驚きだ。
この三日間で、とってもすごい金額の損害が出てる気がする。

ハッカー達は:

ソニーはユーザーに対しPS3の改造を認め、FW3.21以前の状態に戻すこと。
ソニーはユーザーが購入した製品に対して法的措置を行わないこと。
ソニーはIPアドレスを元に訴訟を起こすことをやめること。

の三つをソニーに求めているらしい。俺のような素人にはそれが何を意味しているのか分からんし、それが現状で俺にどう不利益な事で、それがこのプロテストでどう改善されるのかも分からん。
その辺の事に無自覚にネットを使っている自分が、原発の事を知らずに無自覚に電気を使ってた連中と変わらないなと思った。
ただ、大きな違いは、プレイステーションネットワークがダウンしても、俺には他にする事がいっぱいあるし、むしろゲームから一時的に距離が置けて助かるし、「知らない」という事が俺にもたらす不利益に関して俺は気にしないという事。
もともと無かった需要を、マーケティングの連中が頭を絞って作り出したニッチなんて、そんなものだ。

そして、それに対して原発がダウンしたら命に危険があるって事だ。

Tuesday, April 19, 2011

Full Metal Jacket



 恐ろしい事が起きた。急に、映画に飽きてしまったのだ。

 フィルムスクールに入学して以来この5年程の間、いわゆる「名作」をずっと観て来た。
俺は今でこそこうして映像業界の末席を汚しているが、元々映画が好きで好きで業界を志した訳では無った。
日本に居た頃は、恐らく大多数の他の日本人達と同じく、殆どハリウッドに独占されていると言っていい環境で、与えられたモノを観ていた。
タイタニック、二回も観たもんな(恥)。

だから、たまたま運の巡り合わせでフィルムスクールに通い出したとき、衝撃を受けた。
アメリカに有りながら、そこでは、俺がそれまで観て来たアメリカの映画など、一つも観せられる事は無かった。
映画を作ってる連中が、実はハリウッド映画など観ていなかったという事実。
目からウロコだった。

 思えば、当たり前の事なのだ。誤解を恐れずに言えば、B'zを本気で聴いてる連中は、その元ネタが Led Zeppelin だと知る人は少ないだろうし、Star Wars を最高だと思っている連中は、きっとその元ネタが黒澤の隠し砦の三悪人だとは思いもしないと思う。世の中には本物よりも素晴らしいリメイクなんてモノもあるし、そのどちらも知った上で「やっぱりStar WarsやB'zが好き」って人も居るんだろうが、俺は基本的に何でもオリジナルの方が好きだ。
そういった意味で自分がインスパイアされた元ネタについてカメラの前で喋ってしまうジョージルーカスは普通の人の感じがして好感が持てる。
昔ハウスのレコードを買い出した頃、元ネタのサルソウルやダンスクラシックを見つけると、何よりも嬉しかった。

 何事もお金の絡む事には、常にその表層にキャッチーな餌がふりまかれていて、ポピュラーであるほど一般的にテイストは薄い。しかし全ての物事にはルーツが在り、それこそが今、そのレプリカ商品やサービスがお金を生んでいるものの正体だと思う。
そのルーツに興味を持てる人間は幸いだ。何故なら、物事の本質を読み取ろうとする彼等のような人種は、無自覚に他人から搾取される事が無いからだ。

 92年頃、藤原ヒロシあたりがやってたパーティーで、立ち上がったばかりのアンダーカバーだったかBAPEだったかがTシャツを売っていた。当然高かったと思う。2パターンあって、一つは売り物で、一つはスタッフ用だったと思う。紺のシャツにでっかく黄色で「U」と緑で「2」って書いてあるだけ。それを喜んで着ている連中を見てぞっとした。
「こいつら、与えられるものなら何でもいいんだな。」って思った。それが何でそのデザインなのかを、もしくはそれが実際カッコいいかどうかを、誰も疑問に思わない事が理解出来なくて、自分がおかしいんじゃないかと思った。
別のパーティーはもっと酷かった。連中は事も有ろうに「stupid」とプリントされたシャツを作って来て、スタッフ用として配っていた。客に無価値な商品を売って、自分のイベントのスタッフをバカ呼ばわりして遊んでいる裏原系の連中が悪魔に見えて来て、俺はわざとそのシャツを着て一晩遊んでやった。こんな連中が作るTシャツを、ありがたがって一万円も出して買ってる奴らが、家畜に見えた。
でも、最近思う。顔の見えない相手から利潤を得る=mass productionとは、そういう事なのだ。

 話が逸れてしまったが、俺はフィルムスクールでそういった「元ネタの掘り方」を散々学んだ。その上で、いわゆる名作を片っ端から観た訳だが、それに飽きて、最近はB級モノばかり観て撮り方と演出の勉強をしたりしていたのだが、それにも疲れてしまい食傷気味だった。

観るモノが無い。
映画がつまらない。

そんな時、この映画を観てしまった。今まで何度も観たし、何も新しい筈は無かった。
でも、今回は決定的に違った。
クーブリックの様な巨匠と呼ばれる人の作品には、それ自体が巨大なオーラみたいなものを纏っていて、撮り方を参考にしようなんて思う事はまず無い。巨大なセットで、莫大な予算と最高の機材、何百人というスタッフを投じて作られるそのような作品に、俺のような一人のカメラマンが参考にすべき点が有るとは思えないからだ。

でも、この映画は違った。

油断していたのだ。こんなに凄い映画を、いつものB級映画を観る目で観てしまった。
すると、どうだろう。たしかに、ベトナム戦争モノでありながら全てをイギリスに建てたセット内で撮影したとは思えない巨大なスケールに圧倒されたが、実はクーブリックはこの映画を、基本に忠実な撮り方で撮っていたのだ。正に学校で最初に習う基本中の基本のような方法で。
ハリウッド映画のような、難しいカメラワークや巧妙な編集、特撮など何も無い。
ほぼ全てのカットが、どうやって撮られたのか観て分かるほど地味なのだ。
こんな質素な撮り方で、こんな巨大な作品が撮れるのかと、恐ろしくなった。
全ては、脚本と演技なのだ。

 ストーリーは二部構成で、前半は主人公であるジョーカーが海兵隊に入隊し、一人の人間から兵士へと育って行く教練過程を描く。後半はベトナムでの実戦シーン。
リー•アーメイの演じる教官の罵詈雑言は、この前半部分の殆どを埋め尽くし、聴く者を圧倒する。しかも一定のリズムを持っていて、聞くに堪えない内容ながら、何故か聴いていたいと思わせる危険な声なのだ。彼の朗々と続く新兵達の人格を全否定した長い台詞と、クーブリックのカットを極力省いた長いカメラワークは完全に共犯だ。
後半の実戦シーンも、音楽は殆ど入っておらず、ただ銃声と兵士の叫びと足音が延々と暗いアンビエントに乗っかっているだけ。それらが不思議なリズムを成していて、前半と合わせてこの映画を「2時間の一曲の音楽のPV」にしている。音だけで再生していても、十分鑑賞に堪えるのだ。

 そして、この映画を観ている時に、ふと気がついた事があった。
入隊初日に、兵士達はまず教官から圧力をかけられて、精神的に去勢されてしまう(一番上に添付しているシーン)のだが、このシーンを観ていて俺はケンさんに「何でコイツらこんな事されて黙ってるんですか?俺だったら殴り返して帰りますけどね。」と言った。その時、自分を長年苦しめてきた大きな疑問を理解した。

何故、人は戦争をするのか?

簡単な事だったのだ。兵士とはこの、自分の人格を否定されるという儀式を通過したときに、それを拒否出来なかった人間達なのだ。その、どう考えても理不尽なロジックを受け入れた時に、人間は権力によって去勢されてしまうのだ。
「人を殺す」という最大の罪を、「他人に命令されておこなってしまう自主性のカケラも無い人間」が居るから戦争は無くならないのだ。
生きて行くのは、大変な事だ。自分が何が出来るのかを自分で探し出し、自分の重要性というものを他人に知らしめながら、社会との結びつきの中でアイデンティティを確立して行かなければならない。
そんな大事な事を誰も教えてはくれない。なぜなら、それは全て自分で気付かなければ手に入らない事だからだ。
そして、時に苦しくとも基本的に喜びであるそのプロセスを、成人するまでに理解出来なかった人間達が、レベルの違いは有れど世の不条理を受け入れて、順次会社や社会の構成員となり、そしてその末端の人間達が軍隊に行く。

 自分が何者で、何がしたくて、何を愛し、何が許せないのか、何が善で、何が悪なのか、自分にとって何が一番大事なのか、そういった自意識の基盤を持ち得なかった人間達だけが、権力という暴力に屈服して、自己の存在定義である「自分の命」を失う可能性のある「戦争」なんかに「他人の意思に従って」足を踏み入れたりするのだ。

そしてクーブリックが描き出す軍隊は、完全にこの一般社会の縮図だ。
人間は、法という目に見えない幻想をシェアすることを権力機構から強制されて生きている。
その基盤となるのは、「罰則」という形の暴力だ。
法を拒否する権利と自由は、それに対をなす罰則によって必ず禁じられている。
つまり、人間は意識するしないに関わらず、法治国家に暮らす限りは、未だに暴力をベースとした恐怖によって統治されている。
一般社会とは、全ての人間がそれを受け入れながら暮らしている場所な訳で、それはクーブリックの描く軍隊と何が違うのだろう?
厳しい訓練をくぐり抜け、自分の個性というものを徹底的に否定され、他の連中と同じ様に振る舞う事を強制され、可能な限り教官から睨まれる事無いよう自ら行動を矯正した兵士達は、「自分で判断する」という責任を放棄して実戦に赴く。

映画の最後にジョーカーは言う。
「五体満足で生きててうれしい。クソみたいな世界だ。けど、俺は生きてて、そして怖くない。」
こうして自分が何をするのかという命題を考える必要がなくなった人間は、安心するのだ。

驚くかもしれないが、俺の知る限り、今アメリカがアフガニスタンとイラクとリビアで誰と何故戦っているのか知っている人は居ない。現場の兵士達も知らないと思う。

俺の様に、教官の理不尽を拒否する様な「協調性の無い」人間には、やはり外国くらいにしか居場所は用意されていないのかもしれない。

Wednesday, April 6, 2011

原発と東京、アエラの表紙(その2)。

前回に引き続き、無関心について書いている。

地震からしばらくの間、人に会うと必ず家族や友人の安否を尋ねられた。
募金箱を置いていたこともあって、客には必ず訊かれた。
そして友人が関東東北に居ると言うと、必ず次に訊かれるのは「彼等はちゃんと逃げられたか?」だった。
そして、彼等が現地に残っているというと、必ず「WHY?」と訊かれた。

何回この会話をしただろうか。その度に、答えに困った。俺にも全く分からないからだった。

勿論彼等は、そして俺も、道路が寸断されて車も流され陸の孤島と化した地域で行方の知れない家族を探しまわる人達の事について話してはいない。
お金も車も体力もあって、その場をすぐに離れられる人間が、放射線を浴びているかもしれない状況で、ただじっとしている事が不可解なのだ。
この日本人とその他の国の人々とのメンタリティの違いは、成田空港に如実に顕われた。
とにかく脱出しようとする外国人達。俺も東京に居たなら一目散でそうしていたと思う。

そして、その時気がついた。俺もカフェの客も、そして成田に殺到した連中も、皆「ガイジン」なのだ。生まれ育った土地を離れて、見知らぬ土地で暮らすガイジン達には、一カ所に留まって土地を守って行くという観念が理解出来ない。
だから俺達のような連中は、被災地に残って頑張ろうとしている人達の事をどうこう言う立場に無い。
彼等の様な土地を愛する人達こそが、地方色や固有の文化というものを作ってきた訳で、その意味において俺は彼等を尊敬している。俺のような飽き性には出来ない事だ。

それに対して不可解だったのが、東京の反応だった。
彼等の殆どは地方から上京してきた人間達で、言ってみれば国こそ捨ててはいないものの、俺達同様に彼等も頭の中は「ガイジン」の筈だ。
だから、俺はてっきりこの事故が起きた直後は、「あー、これで東京はしばらくカラになるだろうな」と思った。
ところが、だった。

原発が爆発しようが空気中から放射能が検知されようが、会社が臨時休業になろうが、動かない。
計画停電でこれまでの生活を維持出来なくなっても、食料が無くなるかもしれないといっても、買い占めに走って動かない。
水から放射能が検出されても、ペットボトルを買い占めて、家ではその水でシャワーを浴びて暮らしている。

驚いた。

地震から半月近く経った今、振り返ってみれば東京にステイする事自体が間違いではなかったと、もしかしたら言えるかもしれない。しかしどうだろう?10年後に後遺症や奇形が増えたりしない保証がどこにあるのだろうか?
少なくとも、あの時点で悠長に構えているのは殆ど自殺行為に見えた。
アエラの表紙が槍玉に挙げられて、謝罪していた。
「放射能がくる」とは嘘なのか?
なぜ謝罪しなければいけなかったのだろう。

ニュースでは連日「農作物の風評被害が懸念される」旨が叫ばれているが、本当に懸念しなければならないのは、間違って汚染されたものを口にしてしまう事なのだ。
漁業も次々と再開されていて、驚く。報道のトーンも基本的にはそれがまるで良い事のように伝えている。

日常とは、その根幹が揺らいだ時に、その事実を無視してまでも維持しなくてはならないものなのだろうか?



ある日本人の友人と、この問題について話していたところ、彼女曰く、「生きるか死ぬかだけじゃなくて、どう生きたかが問題やから」と言っていて驚いた。言いたい事は分かるが、俺には自分の命と引き換えにしてまでキープしたい日常や、成し遂げたい仕事など無い。逆に、生きてさえいれば何とでもなると思う。
皆、命と引き換えにしてもいいほど、そんなに崇高な何かに出会っているのだろうか?
だとしたら、皮肉でも何でも無くその人達は幸せだ。

別の知人は「今出来る事といったら、とにかく政府の言う事やニュースを聞いて判断して、とにかく自分のやる事やっていくだけだろ」と言っていた。自身の危機管理とは、ニュースや政府の発表を尺度になされるものなのだろうか?
日常というのは、そんな明日をも知れないようなギリギリの状態と背中合わせでバランスをとりながら営んで行くものなのだろうか?

今回の事故を自分の事として捉えるには、俺は自分があまりにも身軽過ぎる事に気がついた。

自分を特定の土地に縛り付けるような財産を持ち合わせていない。
何かの大きな組織に属してもいない。
失うのが恐ろしいような、大それた仕事もしていない。
何処に行っても、また1からやり直せるし、怖くもない。
むしろそれは楽しい部分だと思っている。
そんな自分になりたくてそうしてきたし、快適だ。

だけど、今回はそんな自分と日本の間に大きな溝の様なものがある事が見えて、少し寂しくなった。

Saturday, April 2, 2011

原発と東京、アエラの表紙(その1)。

 前回、地震と津波に関してここでお悔やみを述べた。その気持ちは今も勿論変わらない。
復興に向けて動き出している様子を観て、ほっとしている。本当によかった。

 しかし、原発に関しては全く別の話だ。あれは人災だ。
今回、俺は自分では解けない疑問を呈したい。もしかしたら嫌われるかもしれない。
もし腹が立ったり、間違っていると思ったり、または同意でもいい、何か思う所があればメールでも書き込みでもいいから教えて欲しい。俺は今、自分の意見に疑問が挟めなくなっている。

山岸凉子のパエトーンを読んでみて欲しい。

 俺は子供の頃、自分の家の近くに九州エネルギー館という、九州電力が建てたパビリオンがあったため、よく館内で鬼ごっこをして遊んだりしていた。そこには見上げる程巨大な、玄海原子力発電所3号機の原子炉の実物大模型が展示してあり、それが実際に動きながら発電の仕組みをナレーションで教えてくれる。小学生だった俺はナレーションを暗記する程、原子炉の模型で遊んだ。
元々SFが好きで、しかも時は1980年頃、冷戦まっただ中。北斗の拳やWAR GAME、マッドマックスシリーズ、スターウオーズ構想等に代表される様に、「誰かが核のボタンを押せば全てが終わる」という緊張感を世の中が共有していた時代だった事もあって、俺は当然の事として「核」というものの理解を深めていた。

 俺にとって、原子力発電の仕組みを知らないというのは、不思議な事だ。

 俺達は、世界で只一つの被爆国民だ。たった一瞬で、広島で14万人、長崎で15万人が虐殺された。不謹慎だと言われるかもしれないが、今回の津波の犠牲者が推定3万人と言われている状態と比較すれば、30万人を爆殺するという事がどれほど巨大なエネルギーで、かつ人道に外れた事か分かると思う。しかもその後も放射線障害で癌や白血病で苦しみ続けたり、奇形の子供が生まれたりと、こんな恐ろしい事をされておいて、それが何だったのか知らないというのは、のんき過ぎないだろうか?核兵器の恐ろしさは俺達全員が小学校の時、毎年夏に嫌というほど刷り込まれている筈だ。
俺の理解は間違っているのだろうか?それとも、ゆとり教育では日教組の左翼教員達は原爆の事を教えなくなったのだろうか?

 今回の事故の後の報道や、周囲の知人の話を見聞きして、俺は原子力というモノに対する一般的な理解というのがどの程度のものなのか分からなくなって混乱している。俺の周りには、「東電に騙された被災者への同情論」が多い。曰く、「東電に絶対の安全を約束されて建てたのに、こんな事になって可愛そう」だという。

原発の絶対の安全なんてそんなもの、一体誰が信じるのだろう?
自分の家の裏に原発が建てられたら、俺はそれまで通り普通には暮らせない。
原爆が自分の家の裏でゆっくりとお湯を沸かしている。ものすごい緊張感だと思う。
もしその時、俺が原発の事をよく知らなかったとしたら、一生懸命調べると思う。
絶対に、人の説明を鵜呑みにしたりしない。
利害が絡む時、人間とは決して自分に不利な事をわざわざ人に話したりする生き物ではないのだ。
そこを自覚できているかどうかが、「生きる」という事なのだ。
この動画に出てくる、東電のプロパガンダを書いた奴は、きっと普通の顔をした悪魔に違いない。



ある日のニュースで、東電の副社長が避難所を巡って頭を下げていた。それを被災者が大声でなじっていた。
この人には、東電をなじる権利があるのだろうか?
こんな状況で、とにかく誰かに怒鳴りたいというのなら、心情としてまだ分かる。
でも、俺が今現在知る限り、東電が謝罪するべき人的ミスを犯しているという情報は聞かない。
彼等は最善を尽くしているように見える。
俺が初めに「人災」だと言ったのは、原発を建てた事自体なのだ。
そしてそれは、東電と、それに同意した地元住民の共犯だと思う。

誤解しないで欲しい。命がけで反対運動したけど、結果やぶれて建てられてしまった人達も沢山いるだろう。その人達には同情を禁じ得ない。悔しいだろうな、と思うと俺も泣けてくる。
でも、その人達だって東電をなじる権利は無いと思う。原発が建ったのに、動かなかったのだから。
原発が建った後からそこに引っ越して来た人達は、論外だ。

原発が建ったのに動かなかった、老い先短い年寄り達は悲惨だ。この人達は、きっと東電をなじったりしない。動く気力もなく、ただ目に見えない死を受け入れて今も放射能を浴びながら暮らしている。動画を探したが見つからなかった3月26日のFNNのニュースからの抜粋を読んで欲しい。

以下、抜粋:

陸上自衛隊が原発から20km圏内にある避難指示の町をとらえた映像では、人や車の姿はなく、町は静寂が支配していた。
原発までの距離が10kmを切ると、次第につめあとがあらわとなった。
自衛隊が到着したのは、原発からおよそ5kmの福島・双葉町。
ある夫婦が住む1軒の民家を訪れた。
防護服に身を包んだ隊員の姿が、危険さを語った。

自衛隊員「おばあちゃん、ユキコさん?」
女性「はい」
自衛隊員「おじいちゃんは?」
女性「寝てる」

この夫婦は、今も自宅にとどまっており、家族から救助を求める要請が入ったという。

自衛隊員「ユキコさん、おばあちゃん、助けに来たから。川俣の避難所に...」
女性「どうせ、わたしはな、腰が動かないの、寝ることができないの...」
自衛隊員「それでね、たぶん娘さんからも、娘さんのみちこさん。さっきね、朝、電話来たの。電話来て、『救助してください』ってことで、電話来たのね」
女性「わたしはいいよ、どうなってもいいですから...」
自衛隊員「いやいや、そういうことじゃなくて。やっぱりね、一番大事なのは体だから」
女性「すみませんけども、せっかくですけども、わたし、ここで...」

避難所に移るように説得する隊員。
しかし女性は、「体の不自由な人が行っても迷惑になる」と拒否した。

自衛隊員「なんとしても駄目? なんとしても駄目かな?」
女性「うん。ここにおる、どうなってもいいから」
自衛隊員「電気来てないんだもんね、電気ね」
女性「ここに置かしてください。どうなってもいいんで」
自衛隊員「わたし、正直言って、置かしてくださいって言われても」

女性の意思は固く、隊員らは再び訪れることを約束し、家をあとにした。
30km圏内には、寝たきりの高齢者など、今も2万人近い人が、自宅に残っているという。

 これは、何とも救いのないニュースだった。このおばあさんは、爆発した原発のすぐ裏で、普段着のまま暮らしていた。電気も無く、表に人の姿も全く無い、静まり返った死の町で、夫婦でただ暮らしている。

俺が今回問いたいのは、「無関心」なのだ。耳障りなのは勿論承知の上だ。
しかも、俺が問いつめようとしている相手とは、正に上記の老夫婦の様な人達だと思う。なぜなら、福島第一原発の誘致が決まったのが丁度50年前。恐らく上記の夫婦の年代の人達こそが、それを受け入れた当時現役の20代から30代の人達だったはずだ。
添付の動画のようなプロパガンダを鵜呑みにして、自分達の命に関わる安全かどうかの判断基準を他人に明け渡してしまった事は、責められるべき事ではないのだろうか?

 ここまで書いたが、だからといって彼等被災者や老人達にどうこうと言いたい訳では無い。
俺は今更、こんな救いの無い状態の人達を断罪しようなどと言っている訳でも無い。
彼等には、絶望を乗り越えて、今一度生きる力を振り絞って欲しいと、心から思っている。
俺が、わざわざ彼等を引き合いに出して話を進めたのは、実は東京の話がしたいからだ。
上に説明した、今回の事故を引き起こした原因である無関心と同種の無関心が、東京を覆っている様に外からは見える。
そして、それは恐ろしい事に思えてならない。

俺は、誰かの思惑で自分の命を失ったりするのは、絶対に嫌だ。

次回は、このまま東京について引き続き記してみたい。

Thursday, March 31, 2011

大地震と津波

 日本のみんな、元気ですか?
 久しぶりにブログを更新するにあたって、まず、今回の地震と津波の犠牲者と被災者の方々に、心から哀悼の意を表したいと思います。日々入ってくる悲惨なニュースを目にしては、何か出来る事は無いかと心を痛め、週末働いているカフェで募金箱を置いた所、アメリカ人達の意識も高く、あっというまにお金が集まり、ささやかながら日本赤十字に送金する事が出来ました。募金して頂いた方々に、この場を借りてお礼申し上げます。
 地震と津波に関して、自分からコメントする事は何もありません。ただただ、この有史以来の大災害を何とか乗り切って、生き延びて欲しいと願うばかりです。しかし、このまま海外に居て、だんまりを決め込んでいるのは何だか卑怯な気がしてこれを書いています。私は95年の阪神淡路大震災の時、当地に半年ほど仕事で赴いた折り、大地震の惨状を目にしました。今回はあの被害に津波が重なっていると思うと、私のつたない想像力ではもう、どの程度なのか想像がつきません。
出来る事なら直接現地に行って、この身を以てお手伝いがしたいのですが、海外に居る手前それも叶わず、歯がゆい思いをしています。

 テレビから流れてくるおびただしい量の映像に晒されている私たちは、いつでもそれが事実だと受け止める癖がついてしまっていますが、報道自主規制もあって、中々被災地の実情というのはモニターを通しては伝わってこないものだと言う事が、youtubeにあがっていた、とくダネのフッテージを観て実感されました。
そのフッテージとは、とくダネの取材班が、行方不明の母親を探す男の子とおじいさんの二人組に偶然会ったところから始まり、津波で流された車の中でその亡骸を発見するというものです。
大変な反響で、賛否両論あったようなので、もうご覧になった方も多いかと思われますが、以下にリンクを貼っています。
ただし、グロテスクな映像は含まれていないものの、衝撃的な内容なので御自身で判断してクリックして下さい。


これが現実なのだと思いました。そしてこれが、3万件ちかくも今そこで起きている事なのだと。

「今更こんなものを観て、何になる」という意見には私も賛成です。人の苦しんでいる様を観て同情しているのは下品だと思います。でも、この現実に少しでも深い理解を進めておかないと、私はこれから先の人生において、何か大切なモノを失ったまま過ごしてしまいそうに思えるのです。
仮に、この映像を目にしなかったまま過ごしている自分が地震について語っているのを想像した時に、そんな自分に何とも言えない嫌悪感を感じるのです。もちろん、これが全てではありません。その意味で、いくら知識を増やした所で被災者の皆さんとは経験を共有している訳では無いのだから、自分がこの災害について口にする時についてまわる「うすっぺらさ」は拭いきれないのですが、だからといって、じゃあこれについてはもうこれ以上は話すのをやめよう、としてしまっては、またいつか平和ボケした自分が頭をもたげてくる気がして嫌なのです。

 今回の災害に関しては、目に飛び込んでくるニュースに対して、他のニュース同様に表面的な情報として受け取る事も、一つ一つに胸を痛めながら自分の事の様に受け取る事も、どちらも適切でない感じがします。ことさらにニュースを追っかけても、自分にトラウマを植え付けているだけなのは重々承知なのですが、現実感を伴った目を持ってニュースに接するという事は必要な作業だと思いました。

Thursday, March 3, 2011

26世紀青年



 何なんだ、このタイトル。どう考えても「20世紀少年」ありきでつけてるだろ、これ(笑)。
俺がこんなに憤るには理由がある。なぜなら、この映画のタイトル(原題)は非常に意義深く、既にこの作品の一部だからだ。
無意味な邦題が、日本20世紀フォックスDVDの担当者のバカさ加減を露呈してしまっているこの映画だが、実はIDIOCRACYという素晴らしい原題を持っている。
IDIOT(バカ)とDEMOCRACY(民主主義)の造語だ、と日本語版アマゾンのレビューに書かれていたけど、実際はその現代アメリカを象徴する二つの単語をIDIOSYNCRACY(特異性)というもう一つの単語でくくった非常に秀逸なタイトルだ。
このidiosyncracyとは、対応する日本語が無いため翻訳しにくいけど、「ある特定の地域や集団に固有の性癖や特徴」を指す言葉で、正にこの映画が描かんとしている「アメリカ特有の病理」を言い当てていて素晴らしい。

 現代アメリカを風刺したこの作品、公開時に20世紀フォックスが、その内容から観客を刺激する事を恐れて、予告編すらも作られず、宣伝も全くなされず、ある日突然たった130館のみで公開された希有な作品。
この出来事が、ハリウッドが自分達の客をどう考えているかを物語っている。しかも日本でも未公開。
しかしDVDのリリースで火がつき、皮肉にも9億円の売り上げをあげており、この配給側とマーケットのズレこそが、本作のターゲットとしている観客なのだ。

 主人公(オーエンウィルソンの弟、ルークウィルソン)のジョーは、座ってるだけでこれといって特別な仕事もせずに給料をもらっている典型的な公務員(軍人)。身体能力、健康状態、知能等何をとっても「素晴らしい程」アベレージな男。しかも身寄りの無いその彼と、これまた同じ様なアベレージな女性リタの二人を検体として、陸軍が人口冬眠の実験を行った。しかしその直後に担当者が売春斡旋で逮捕されてしまい、計画自体が放置の末、破棄されてしまう。何も知らずに冬眠を続ける二人。
ある日、突然のショックで目を覚ますと、そこは500年後の世界だった。二人が眠っている間に、世界はSFで観たそれとは随分違った進化を遂げていた。20世紀にその進化の頂点に達した人類は、「経済的理由を考えると子供を作れないというIQの高いバカ」と、「何も考えてないから子供ばかり作るIQの低いバカ」の二つに分かれ、当然その子孫はIQの低いバカばかりになってしまい、その後劇的に知能を退化させて行く。農業と医療の発達と天敵の不在がもたらしたのは、自然淘汰の効かなくなり無駄に増え続けた人間達だった。テクノロジーと消費社会は究極の便利さを提供し、人間に「作る」事を忘れさせ、人々は「買う」ことで生活していた。
 そこは完全な管理社会であったため、システムに属していないジョーは早々に収監されてしまう。そこで受けた知能試験で、彼が人類最高の知能の持ち主である事が判明し、突然合衆国内務長官に任命。長年放置され、鬱積した人類の問題を一週間で解決しなければいけない羽目に陥る。何一つ特別でない彼に、はたして人類は救えるのだろうか?

 先日紹介したキンザザと同じだが、この映画は未来を描くという行為を通して現代を描いている。
人々はみなジャージを着ていて、その生地はブランドのロゴで一杯。
言語は乱れ上げていて、会話が成り立たない。
行政機関は民営化が進んでおり、行政サービスにはスポンサーの商品が提供されている。
大統領は元ポルノ男優でプロレスラー(それぞれレーガンとシュワちゃんのメタファー)。
ジョーの弁護士は資格をコストコで購入している。
笑いのテーマは下ネタ一色で、ニュースキャスターも筋肉モリモリと巨乳の二人組。
風俗店に進化しているスターバックスのポリシーの無さが、企業というモノの道徳観の低さを表している。
どれも今現在、現実に起きている事柄を少しだけ捻って描いてあるだけで、実際のアメリカは今すでにこうだと思う。
広い国土とモータリゼーションを基盤にして、50年代にほぼ全ての中産階級にハウジングの供給が済んでしまい、大量消費で生活のコストを抑える事に成功したこの国では、一部の都市生活者を除いてあまり仕事をする必要が無い人達が多い。
家賃を払う必要がなく、モノも安く、食費も安い。パスポートの所持率は6%と先進国でダントツ最下位で、外の世界を全く知らず、テレビが未だに生活の中心というライフスタイルだと、100年もしないうちにきっとこうなってしまうだろうと思ってしまう。
こんな条件の人達、日本の地方都市にもそろそろ増えてくるんじゃないかと思う。

 90年代半ばから2000年くらいまでのコギャルブームの頃の日本も、正にこんな世界だった。
今丁度30歳前後の年代から、大学の定員割れが始まり、ゆとり教育が始まって、日本人は決定的に変わった。
テレビで赤っ恥青っ恥なんか観て、仕込みなんだか本気なんだか分からなくて混乱したのを憶えている。
あ、でも最近だって「羞恥心」とかいう連中が無知キャラで売ってたっけ。

 最近の日本の20歳くらいの子達は落ち着いていてリアリスティックに見えるので、実情を知らない俺の目には、日本は良くなって来ている様に映るが、実際はどうなんだろう?コミュニケーションの薄さと視野の狭さは、ありありと見えるけれど。まだ10年前のように無知が大手を振って暮らしているんだろうか?
そんな事ないと願いたいが、今日また一人、日本にバカを見つけてしまった。
この邦題付けた奴は、きっとこの映画が描かんとしている人物に相違ない。

Friday, February 25, 2011

授かり物は。。。。

男の子でした!!
シンボルが、ばっちり矢印で指されてます。
左下に 「BOY」 って書いてあるのも笑えます。

Friday, February 18, 2011

不思議惑星キンザザ



昨晩、何か洗い物でもしてる時に、突然この映画を思い出した。
この映画について、初めて耳にした時から20年、何故か今まで観た事が無かった。
そして昨日観たこの映画は、丁度20年間ためていた宿題を消化した様な、何とも言えないいい気分にさせてくれた。

買い物に出たヴォヴァと、そこにたまたま通りかかったフィドラー(バイオリン弾きの意)は、街角で声をかけて来た狂人と思わしき人物と関わった事で、突然遠い宇宙の何処か彼方の世界へと移動してしまう。そこは水が枯れ果てた惑星プリュクだった。そこには地球人類そっくりの人間達が、全く違う文化道徳を持った社会を作って暮らしていた。全ての社会的規約は、彼ら二人にとって意味をなさない不思議で不条理なものばかり。見た目も出身地も同じ人間の間に人種差別があったり、マッチが非常に価値のあるモノだったり。
星の住民同士は基本テレパシーで意思疎通を取っており、言葉は「キュー(罵声)」と「クー(それ以外の言葉)」しか無い。しかし、相手の思考がよめる彼等は、二人の話すロシア語をすぐに理解した。全く常識の通じないこの世界から、二人は地球に無事戻れるのか?

監督のレオニード ガイダイは、遠い宇宙の何処かになぞらえて、この俺たちの住む世界を抽象的にユーモラスに描いている。
そうする事で当時検閲の厳しかったソヴィエトの政府を欺き、体制批判を行っていたという。
しかし、本当にそうだろうか?俺には、彼は作りたい物を作りたい様に作っただけにみえる。
もちろん社会体制の批判はメタファーとして含まれているが、意図的に隠してあるというよりは、単純に体制側の人間が、この映画の言わんとしている事が分からなかっただけだと思う。この人みたいに。
そして彼の描かんとしている世界は、俺が物心ついた時から持ち続けて来た大きな疑問を代弁している。

貨幣って何?
それを発行している政府が破産しているのに、何故その貨幣がまだ流通していられるのだろう?
法律って何だ?
もし法律が自由というものを保証しているなら、そこに制約がある時点で自由という概念を自ら否定していないか?
罰金って何?
何故皆、駐禁の罰金を払ったりするんだろう?
誰に、何の為に払ってるんだ?何でそれに値段が決まってるんだ?誰が、何を尺度に決めたんだろう?
土地の所有という概念って何だろう?
土地って誰かの物なんだろうか。元は誰のモノでもなかった筈だから、何千年か前にそれを初めに売った奴が居る筈だ。誰だ、そんなゲーム始めた奴。
17歳の頃、こんな社会の基盤となっている筈のルール達の殆どが、考えれば考える程全く意味を成していない事に気がついて、俺は心底恐怖を感じた。

何で敬語って使わないといけないんだろう?使わなかったら怒る人もいるし、そもそも何故そんなものが出来たんだろう?
FUCKって単語を付けると、なぜ下品になるんだろう?それ自体に何の意味も無いのに。
Fuck youってどういう意味?アメリカ人に聞いても、誰も知らない。
ならば、何故その言葉の意味する所が分からないのに、それを言われると怒れるのかが、また分からない。
裁判官って何故、人を裁く権利があるんだろう?
パスポートとか、ビザって何?
そもそも権利って何だ?義務とは?

でも、年を重ねて、人間というモノがどういう生き物であるかやっと分かり出して来て、怖くなくなって来た。
きっと、ガキの頃の俺は、世界というものが完璧である状態をベーシックに物事を捉えていたんだと思う。
だからシステム自体に不正や矛盾が有る事に、ものすごい生理的嫌悪感があったんだと思う。
生真面目だったんだと思う。

17歳の時にこのフィルム観てても、きっと理解出来てなかったと思う。
でも、今は死ぬ程笑える。

では、英語字幕ですが、下記より全編お楽しみ下さい。

不思議惑星キンザザ part1
不思議惑星キンザザ part2

Tuesday, February 15, 2011

Robert Rodriguez 祭り



前回の最後に少し触れたが、我が家では最近、ロベルトロドリゲス祭りが勃発している。事の始まりは、El Mariach だった。

テキサス大のフィルムスクールを成績不良を理由に退学になりそうになった彼は、$7000という超低予算でこの2時間物を撮ってしまう。当初メキシコのVシネマ用に作られたものだったのだが、いきなりその年のサンダンスフィルムフェスティバルで観客賞を獲り、コロンビアピクチャーズに買い取られて全米公開される。一躍彼はハリウッドの一流監督の仲間入りを果たした。
このEl Mariachi、ロドリゲス自身がプロデュース、監督、撮影、脚本、編集と、殆ど独りで作っており、とにかく低予算で作る為に施された工夫や、撮影行程のオーガナイズが素晴らしく、また内容の微妙にB級な感じがウケて、アメリカではインディーフィルムメーカーのバイブルといっても過言でない扱いを受けている。本編も勿論面白いのだが、それよりもボーナスで入ってる ”10分フィルムスクール” が秀逸。どうやってこの限られた予算で予定のショットを撮ったかを、ロドリゲス自身が解説している。この15分程のいわば「通信教育ビデオ」は俺が学校で習った編集のクラスよりも、ずっと分かりやすく為になった。

El Mariachiでハリウッド入りした彼は、その前年に同じ賞を獲っていたタランティーノと意気投合。彼の助言通りにEl mariachiを三部作として仕上げ、彼自身と共に、当時無名だったアントニオバンデラスをスターダムに押し上げる。このDesperadoOnce upon a time in Mexicoは当時丁度ハリウッドが作るのをやめていた、70年代の低予算B級映画、通称「グラインドハウス」の復刻版というかセルフパロディもので、「ハリウッドが自分を笑う」というコンセプトがウケて大ヒット。その後、この流れはハリウッドスターが自分の過去の役柄を自分で演じるという形で影響を与え、Expendables等、今日まで続いている。

2000年を周り、今度彼がとった行動は皆を驚かせた。それまでのバイオレンス路線を180度方向転換し、ファミリー向け娯楽映画Spykidsを制作する。この映画でも彼は、音楽を含むそのほとんどを独りでこなしてしまう。しかもこれが面白い。子供向けでは無く、ファミリー向けというのがミソで、大人が観ても充分楽しめる。前作で機関銃を打ちまくってたバンデラスが子煩悩なパパを演じているのも笑える。
その後Spykidsはシリーズ化。Spykidsは、彼が彼の子供達の為に作ったファンタジーというコンセプトが見え隠れしていたが、次のSharkboy and Lavagirlではなんと、彼の7歳の息子にストーリーを書かせ、それを映画化している。小2の子供が、おそらく「あのね、そんでね」口調で語ったであろう物語は、前後のつながりやストーリーの整合性に乏しく、かなりサイケデリックな仕上がり。こんなものが映画になりうるのか、とまた唸らされた。

2007年に、ロドリゲスはタランティーノと共同でGrindhouseを制作。これは先程触れた70年代のB級映画の復刻で、タランティーノ監督のDeath proofという下らないカーチェイスものとロドリゲス監督のPlanet terrorというゾンビものの二本立て。当時一般的だった二本立てという配給方法から、フィルムのヤケや傷、当時多かった映写中のフィルム詰まりによる上映中断までを意図的に作り込んであり、ストーリーもベタベタの「あったあったその感じ」なゾンビ映画で、キャラクターとそのキャスティングもまさに「あるある」な仕上がり。当時の低予算な監督達が、それでもやりたい事が有りすぎるが故に全部を一つの映画に詰め込んだ、情熱的な感じがすごくよくプロットに組み込まれていて笑える。さっきまでサスペンスだったのに、急にサイコスリラーになり、次のシーンではコメディ、またその次は戦争モノ、そしてロマンスと、とにかくてんこ盛り。そのどれもが明らかに意図的に中途半端で、俳優陣のシリアスな演技も手伝ってもの凄く可笑しい。
俺はフィルムスクールに行って初めて気がついたのだが、ゾンビ映画とはフィルムメイカーの為にあるジャンルなのだ。さっきまでとってもいいやつだったアイツが、いきなり食べられたり、あんなに奇麗だったあの子が醜いゾンビに、なんてストーリーを、同級生たちは爆笑しながら夜遅くまで頑張って作っていた。当然出演も全員友達だから、試写会の日には、画面いっぱいに引きちぎられる友達の絶叫する下手な演技や血しぶきを観て、みんなでまた爆笑してた。

Planet Terrorの冒頭に、別の映画の予告編を入れるという、これまた70年代にはよく見られた手法を取り入れているのだが、実はその映画は、実在しないものだった。この映画、タイトルをMacheteという。Spykidsで、両親を助けに敵地に赴く子供達をアシストする、Macheteという涙もろく心優しい伯父さんというキャラが居て、ロドリゲスの従兄弟であるダニートレホが演じている。Spykidsで出て来たその心優しいmacheteが、実は殺しまくりのダークヒーローという設定のスピンオフ作品という設定(書いててややこしいな)。Spykidsを観た人達からみれば、「あのマチェテが、実はこんな恐ろしい奴だったなんて!」とそれだけで笑える予告編だったのだが、去年、その反響から遂に映画化され、これまたロバートデニーロ(イタリア人の彼の名前もロベルトと呼ぶべきだろう)やスティーブンセガール等の一流スターが、わざわざベタな役を演じてて面白い。

彼の映画を観てて、いつも思うのは、「なりきる」というのは笑える、という事。彼が笑いの対象にしているものは、ハリウッド映画のアクションスターやセクシーアイドル等、いつも「本気でなりきってる奴」で、そこに現実を知らないが故に描かれる、その人の夢や妄想が垣間見え、その妄想のディティールの甘さや現実とのギャップに笑える要素が詰まっているのだ。
これはカミングアウトを促しているともとれる。つまり、「なりきってる奴ら」を描く事で自分の描くキャラに対する第三者的な観点を表現し、そしてそれを笑う事で対象となる「なりきってる奴ら」に「お前等は笑える人達なんですよ」という明快なメッセージを送っている。そこにある種の愛情が感じられるからこそ、彼のフィルムが、ともすればキャラ攻撃と取られても仕方ない中で、大きなオーディエンスから理解を得ている理由なのだろうと思う。
そういえば、ここで延々と書いて来たロドリゲスの手法と同じコンセプトの映像を最近観た。今年の「笑ってはいけないスパイ」の中盤で流れたミニドラマ「君の瞳に両思い」がそれだ。大鶴義丹、保阪尚輝、田中律子ら90年代初頭の月9ドラマのゴールデンメンバーが、ベタベタな恋愛ドラマを演じていた。あの頃のドラマって、絶対恋愛した事ない奴が書いてた感じバリバリだったもんな。

あの頃、あれ書いてたライター達ってのは、本気だったのだろうか。それとも、爆笑しながら作っていたんだろうか?

Friday, February 11, 2011

Enter the void



東海岸は記録的な寒波と大雪、なんてニュースがチラホラ見える中、SFはもう春だ。
昼夜の気温差がデカくてキツいけど、昼の陽気も、夜のピリッとした冷たさも気持ちいい。
こんな日は、昼の散歩の後、夜、独りでチャリに乗る。
SFはご存知の通り坂の街なので、チャリ乗り達は、坂が少ない道を通って、ドライバー達とは違うマップを頭に入れて暮らしている。
当然勾配の少ない道といえば谷なので、行く方向が同じだと、いきおいそこにチャリが集中する。
その道がいつしかバイクレーンとして整備される様になった。
皆が同じルートを走るとなると、当然そこには速いヤツと遅いヤツがいて、ほぼ同じスピードのやつらもいる。
俺も最近知ったのだが、夜になると、市内の主要なバイクレーンはこういう連中の「ちょいレース」がそこら中で始まってる。
しかも、勿論そのとき一緒に走る相手にもよるが、結構距離が長くなる。
夜の5km位のスプリントレースは、結構息があがる。

今、ひとっ走り競争して、California Academy of ScieneDe Young Musium の中庭でこれを書いています。
知らない奴と自転車で競争なんて、小学校の時以来だな。最近自分の事が小5に思える。
夜中の公園で、意地になって自転車をこぎまくる37歳(中身11歳)。

これまで、自分の過去なんて殆ど気にもせずに、前の事ばかり見て生きて来た。もし仮に皆が俺と同じ様に考えていたとすれば、だから人は自分の子供の頃の記憶を無くしていくんだろうと思う。違うのかな。
そして、子供が出来た事をきっかけに、自分の過去が気になる様になった。
これは180度の観点のフリップだ。
いつまでも過去の自分を忘れたまま目の前にあるものを摂取しつづけていては、子供にモノを教えたり出来はしない。
そして、この日が来るまでにどのくらい自分という人間に多様性や深みを持たせられたかで、人は自分の価値を判断するのだろう。
やりきって満足した事、まだまだやり足りない事、やってみたけど全然好きじゃなかったのに、何であんな事やってたんだろう?みたいな事もある。
そんな事を一つ一つ検証していくと、本来自分が好きだったり得意だった事と、自分が成長する中で得て来たモノとがある事に気がついた。だから、子供にはそれを早いうちから見出して、その様に育ててあげたい。

人には、この「子供が出来る」ともう一つ、自分の人生を振り返るきっかけとなる瞬間があると思う。

それは「自分の死」だ。

死というものについてまだ人類は確たる定義を持てていない。
でも俺は、自身の過去の臨死体験や文章を通して得た情報から考えるに、仮に魂というものが存在するとすれば、事故や自殺や寿命や安楽死などのいかなる状況の死においても、自分で決意しない限りは完全に死というものを受け入れる事が出来ないのではないか?と考えている。
そう考えるには理由がある。なぜなら、「人間の脳は、一度見たものを忘れない」と言われているからで、レインマンに描かれていたサバン症候群の存在がそれを証明している。もし人がよく言われる様に、「死の瞬間に自分の人生を走馬灯の様にリコールする」なら、「人間の脳は、一度見たものを忘れない」のであれば、その人が拘り続ける限り、どんな小さなディティールまでも思い出せる能力が人間には備わっている訳で、人は肉体的には死んだとしても、その魂なり意識なりは、自分が納得するまで自分の人生と向き合い続ける事になるはずだ。

と、ここまでは俺の勝手な想像上での「死」というものだが、今日の映画 Enter the Void は、この問題をチベット死者の書を下敷きとして描いた物語だ。
輪廻転生を信じるチベット人達の死生観を、東京を舞台にそこに住むアンダーグラウンド外人コミュニティ達を例にとって描いている。
このへんの哲学的、宗教的、神秘的なモノは、今の興味の対象ではないので、内容については正直どうでもいいのだが、ヴィジュアルにはやられた。
特に主人公が死んでしまうまでの初めの30分程は、まるで自分がサイケデリックドラッグを摂っているかの様な錯覚に陥る。
好きじゃないのに今朝、起きてすぐに、また観てしまった。この映像にはちょっとした中毒性がある気がする。

まあ、また観てしまったけど、俺はやっぱりPlanet Terrorとかの方が好きだな。

Monday, January 31, 2011

D.I.Y. or DIE



 まだ中学生の頃、パンクロックを初めて聴いた時に、ビックリした。
勿論カッコいいからだった。ザラザラした音質にヤられた。高校に上がる頃、イカ天のお陰でバンドブームだったけど、地元のライブハウスでは、まだレコードから聞こえて来てたようなロックには中々会えなかったから、近所のケヤキ通りのアストロマインドって古着屋に、意味も無く音を聞きに行ったりした。Alley cat Loftもいい音かけてたな。

D.I.Y. Do It Yourself.

「こんなに下手糞で音質も悪くても、レコードって出せるんや。」それまで歌謡曲やテレビから聞こえるポップスしか知らなかった俺には、商品化された音楽でないインディーズの音楽は「生」の質感をもって感じられた。
思えば、パンクの友達は当然かもしれないけどD.I.Y.だった気がする。
パックマンスペースインベーダーズで自分をプロデュースしてたし、小山君はリスクをシルクスクリーンで刷ってた。
ヤッチンも早いうちから東京に出て靴屋始めてた。

 この街は、いい意味で社会的に破綻した人間でも受け入れられる素地があるので、「好きな事しか出来ない」愛すべき人達が沢山いて、彼等は今日も、その持てるスキルで必死に生きている。連中は、当然あまり裕福でない場合が多い。だから自分で何でもやるし、また、出来てしまうから自分でやってしまう。買うという必要があまり無いからお金に対する執着が薄い。だから器用貧乏になってしまう。
 こういうマーケティングから程遠いところで暮らしている人達の作るものは、とても素直でユニークで、難解なのに何故かメッセージが受け取りやすい。一生懸命作られた彼等のジュエリーや服や音楽や絵を前にすると、工業製品のなんと退屈な事かと思わされる。
毎月開かれるクラフトフェアでは、街のアーティスト達が店を出しているからよく覗きに行く。ゆかちゃんと直樹も店出してたな。

 D.I.Y.は2000年代のトレンドだったと思う。買い物に飽きた人達の、当然過ぎる反応だった。今日のこの映画に出て来る連中は、最近までこの街にゴマンと居た類いの連中だ。買う事を拒否して、また自分達の作品を企業に売る事を拒否して、自分達で全てやって行く事。映画は単純にインタビューのつなぎ合わせなのだが、それぞれのキャラの持つ個性と言葉の力強さ、そしてなにより皆が揃って異口同音に同じ考えを口にしてる様に胸がすく思いがした。
インターネットが個人と企業のサイズの違いを埋め、利ざやでメシを喰ってる人達を締め出してる。
人と人が、驚く程近くなった時代。生産者と消費者が直接つながれる。
これから、もっともっと言いたい事がある人や、見せたいものがある人、聴かせたいものがある人達が出てくるだろう。
アートにかかるコストは、信じられないスピードで縮んでいる。

そして、この映画の監督自体もこの映画を予算ゼロで撮って自分で配給してる。
DVDは売ってるけど、買った人にはコピーする事を勧めてるし、第一youtubeに自分で全部アップロードしてしまってる。
このままいけば、いつか皆がアーティストになるんじゃなかろうか?
そんな風に思わされる。

その一方、2010年からの流れは、急激にヤッピー化が進んでいるようにも思える。田舎で買い物とフットボールを楽しみに生きてた様な人達が、この一年で急激に都市部に流れ込んで来た。ウチの近所でも、高そうなイヌ連れた白人がロゴ物のスエット着て、腕にipod付けてジョギングしてたりする。これからどうなる事やら。

日本はどうなんだろう?

Tuesday, January 11, 2011

Star Trek IV - The Voyage Home



 もう、月も半ばになろうかとしていますが、皆さん、明けましておめでとうございます。
2011年。こうして文字(数字?)にすると、なんと未来に来たんだろうって改めて思わされるなあ。
俺なんかは、小学生の頃からノストラダムスの大予言を信じて「自分は27歳で地球と一緒に死んでしまうんや」って思ってたタチだったので、ガキの頃は、21世紀の世界や自分がそこに生きてるってことを想像した事が無かったイタイ子だった。五島勉は、全国の純粋な少年少女だった人達に、謝罪行脚するべきだと思う(笑)。
因に、予言の1999年7月には、実際は25歳だった。足し算もちゃんと出来ないくせに、何を終末論にかぶれてたんだろうか。
思春期に入ってからコッチは、もう殆ど自殺願望的なくらいに、勢いでやりたい事だけやって生きて来たから、実際30歳になった時、「あれ?俺30なのに、まだ生きてるやんか。」って、不思議な気持ちになった(笑)。

 そんな俺は、2001年にアメリカに引っ越して来たから、21世紀の日本を知らない。小泉/安倍/麻生/鳩山/管の日本を知らない。しかも既に現時点で3年も帰ってないし。今、日本ってどんなところなんだろうか?
俺の記憶では、20世紀の日本には90年代に入って緩まったとはいえ、大きな意味で「流行」というものがまだあった。だから概ね皆、似た様な格好で歩いていたし、だからこそ「変な人」や「ダサイ人」という概念が存在していた。人はまだあの頃、ユニクロを着る事を拒否としていたと思う。最近は「国民服」なんて呼ばれてるみたいだけど。
でも、2001年にやって来た時のサンフランシスコは、似た様な格好をしている人なんて殆ど居ない街だった。ありとあらゆる人種が、ありとあらゆる年代のファッションで、いや年代すらも超越した、各々のスタイルで好きな様に暮らしていた。

それを見たときに初めて、Star Warsが何故あんな風に玉石混在の世界に描かれていたのか理解出来た。あれは、これのメタファーだったのかと。そして、あれから10年。最近急激にヤッピー達が増えて来て、街の景色が変わりつつあるが、それでもやっぱりこの街は相変わらず。写真の様なエキセントリックな人達で、今日も街は溢れかえってる。この街にエイリアンが紛れ込んでても、きっと誰も気がつかないと思う。

 先日、初めてスタートレックを観た。きっと、知ってる人達にしてみれば当然の知識なのかもしれないが、俺はまず初めにビックリさせられた。舞台の23世紀の未来では、銀河を統べる宇宙艦隊の本部がサンフランシスコなのだ。あー、そうかもなあ、と、妙に納得。
このシリーズは66年の放送以来、テレビエピソード701話、劇場映画11作を数える壮大な物語で、今生きているアメリカ人のほぼ全てのジェネレーションがこの作品と共に育って来ていて、それ自体が一つのジャンルとも呼べる世界を形成している。実際、これを観て育った世代がNASAに就職し、今日の宇宙開発を牽引していると言ってもいいと、ある友人が言っていた。Star Warsが、科学的根拠を全く無視した「遠い昔の宇宙の何処か」のファンタジーであるのに対して、スタートレックは何処までもロジカルなハードSF。宇宙オタクのハートをガッチリつかんでいる。

 俺が観たのは、初めてながら何故か劇場第4作目。舞台は23世紀の地球。ある時突然、未知の超巨大宇宙船が地球にやって来た。それは解読不能な信号を地球に向けて絶え間なく送ってくるのだが、その信号自体が非常に強力な波動であったため、海は蒸発し、気候変動を引き起こし、地球は突如壊滅の危機に陥る。返答しようにも手段が分からない宇宙艦隊だったが、その信号がクジラの鳴き声と酷似している事に気がつく。しかし、唯一の希望のクジラは乱獲のため21世紀に絶滅してしまっていた。
お手上げに見えた地球だが、ある解決策を思いつく。宇宙船を太陽に向かって放物線を描いて落下させ、その巨大な重力を利用して加速し、光速を超える事によってタイムトラベルして20世紀に戻り、クジラを連れて帰ってこようと言うのだ。
計画通りタイムトラベルは成功し、1986年のサンフランシスコに到着した一行だが、世界は23世紀のそれとはあまりに違い、戸惑うばかり。しかも宇宙船は燃料切れ。お金も一銭も持っていない彼等に、クジラを捕獲する事が、そして23世紀に戻る事が出来るのか?

 初めてのスタートレックだというのに、映画の大半は80年代のサンフランシスコで、しかも反捕鯨問題を含む社会派で、ちょっと変な感じだったが、作品自体はとても面白かった。マニアの間では賛否両論の「らしくない」エピソードだったらしい。
彼等未来人(宇宙人1人含む)が、何の違和感も無く86年のこの街にとけ込んでいるのが本当に笑える。
途中、「これ実話か?」って思うくらい(笑)。

ケンさんが、Star Trek Blu-ray Box setを買って、「これから娘の教育です」と言っていた。
俺も再来年あたりから、子供と一緒に全エピソードマラソンしようかな。
あ、毎日1本観ても、2年かかるや。どうしよう。