Friday, February 11, 2011

Enter the void



東海岸は記録的な寒波と大雪、なんてニュースがチラホラ見える中、SFはもう春だ。
昼夜の気温差がデカくてキツいけど、昼の陽気も、夜のピリッとした冷たさも気持ちいい。
こんな日は、昼の散歩の後、夜、独りでチャリに乗る。
SFはご存知の通り坂の街なので、チャリ乗り達は、坂が少ない道を通って、ドライバー達とは違うマップを頭に入れて暮らしている。
当然勾配の少ない道といえば谷なので、行く方向が同じだと、いきおいそこにチャリが集中する。
その道がいつしかバイクレーンとして整備される様になった。
皆が同じルートを走るとなると、当然そこには速いヤツと遅いヤツがいて、ほぼ同じスピードのやつらもいる。
俺も最近知ったのだが、夜になると、市内の主要なバイクレーンはこういう連中の「ちょいレース」がそこら中で始まってる。
しかも、勿論そのとき一緒に走る相手にもよるが、結構距離が長くなる。
夜の5km位のスプリントレースは、結構息があがる。

今、ひとっ走り競争して、California Academy of ScieneDe Young Musium の中庭でこれを書いています。
知らない奴と自転車で競争なんて、小学校の時以来だな。最近自分の事が小5に思える。
夜中の公園で、意地になって自転車をこぎまくる37歳(中身11歳)。

これまで、自分の過去なんて殆ど気にもせずに、前の事ばかり見て生きて来た。もし仮に皆が俺と同じ様に考えていたとすれば、だから人は自分の子供の頃の記憶を無くしていくんだろうと思う。違うのかな。
そして、子供が出来た事をきっかけに、自分の過去が気になる様になった。
これは180度の観点のフリップだ。
いつまでも過去の自分を忘れたまま目の前にあるものを摂取しつづけていては、子供にモノを教えたり出来はしない。
そして、この日が来るまでにどのくらい自分という人間に多様性や深みを持たせられたかで、人は自分の価値を判断するのだろう。
やりきって満足した事、まだまだやり足りない事、やってみたけど全然好きじゃなかったのに、何であんな事やってたんだろう?みたいな事もある。
そんな事を一つ一つ検証していくと、本来自分が好きだったり得意だった事と、自分が成長する中で得て来たモノとがある事に気がついた。だから、子供にはそれを早いうちから見出して、その様に育ててあげたい。

人には、この「子供が出来る」ともう一つ、自分の人生を振り返るきっかけとなる瞬間があると思う。

それは「自分の死」だ。

死というものについてまだ人類は確たる定義を持てていない。
でも俺は、自身の過去の臨死体験や文章を通して得た情報から考えるに、仮に魂というものが存在するとすれば、事故や自殺や寿命や安楽死などのいかなる状況の死においても、自分で決意しない限りは完全に死というものを受け入れる事が出来ないのではないか?と考えている。
そう考えるには理由がある。なぜなら、「人間の脳は、一度見たものを忘れない」と言われているからで、レインマンに描かれていたサバン症候群の存在がそれを証明している。もし人がよく言われる様に、「死の瞬間に自分の人生を走馬灯の様にリコールする」なら、「人間の脳は、一度見たものを忘れない」のであれば、その人が拘り続ける限り、どんな小さなディティールまでも思い出せる能力が人間には備わっている訳で、人は肉体的には死んだとしても、その魂なり意識なりは、自分が納得するまで自分の人生と向き合い続ける事になるはずだ。

と、ここまでは俺の勝手な想像上での「死」というものだが、今日の映画 Enter the Void は、この問題をチベット死者の書を下敷きとして描いた物語だ。
輪廻転生を信じるチベット人達の死生観を、東京を舞台にそこに住むアンダーグラウンド外人コミュニティ達を例にとって描いている。
このへんの哲学的、宗教的、神秘的なモノは、今の興味の対象ではないので、内容については正直どうでもいいのだが、ヴィジュアルにはやられた。
特に主人公が死んでしまうまでの初めの30分程は、まるで自分がサイケデリックドラッグを摂っているかの様な錯覚に陥る。
好きじゃないのに今朝、起きてすぐに、また観てしまった。この映像にはちょっとした中毒性がある気がする。

まあ、また観てしまったけど、俺はやっぱりPlanet Terrorとかの方が好きだな。

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