Saturday, August 28, 2010

The Man Who Fell to Earth



 NYからやって来たファイアーダンサーのMasaeちゃんがSFでセミナーを行い、その模様をカメラで収めてきました。本人の弾けるエナジーは勿論良かったですが、会が進むにつれ、参加者の皆さんが能動的に彼女と情報を交換しながら自身を解放して行く様を観るのは中々興味深く、良い刺激を貰いました。まゆみちゃん、ひろみちゃん、そしてまさえちゃん、どうも有り難うございました。

 さて、そんなこんなで合計3時間近く回したビデオのフッテージを全て観なければならないのも、この商売の辛い所。いつも撮る時は撮りこぼしの無い様に、そしてエディターに少しでも多くの選択肢を与えたいと思う親心(?)も手伝って、ついつい長めに回してしまうのだが、最近大学にまた行き始めた事もあって、忙しい毎日。昨日も夜9時まで学校行って、10時帰宅、そこから全てフッテージをチェックしてメモとって、早めに終わっても1時過ぎか〜。でも自分の時間もちゃんと持ちたい。ん〜、やっぱビデオ1本観ようっと。でも、終わったら4時過ぎちまうな。

 前回に引き続き、Nicolas Roegの映画が観たくて帰り道にビデオ屋をdigしてたら、あったあった。流石はLost Weekend
David Bowie主演のSF、The Man Who Fell to EarthがBlu-Rayで入荷してた。当然観るでしょうよ。

 その男は、New mexicoの山中に居た。いつやって来たかも分からない。彼は人里へ降りてきて、社会に参加しようとする。
見た事も無い製品のパテントを取って、あっという間に彼はアメリカでも有数の富を築き上げる。しかし他者は皆、彼の事を詮索したがったり、疑い深かったり、性に溺れていたり、陰謀を巡らせていたりしていて、それらをまともに受け取ってしまう敏感な彼には、都市生活は消耗が激しく、すぐに逃げる様に隠遁生活をする様になる。
人知れずNew Mexicoに戻って来た彼は、場末のホテルに投宿し、世話焼きなメイドのMary Louに一切を任せて暮らし始めた。
他者との直接的なコミュニケーションを絶った彼はテレビに異常な執着を見せ始め、ホテルの部屋に何台ものテレビを持ち込み、一日中それらを眺める様になった。テレビが見せる人間の本性。世界は暴力と欲と性に溢れ、それらは彼の意識に入り込んで離れない。あまりに大きな他者のエゴに押しつぶされそうになった彼は、ある決断を下した。その持てる富をつぎ込んで彼が行った事とは。。。。。

 80年代以降のサイバーパンクをベースにSFというジャンルを見て来た俺には、どうしても「SFとは、現在をベースに捉えた上で未来の社会を描き出す思考実験」という思い込みがある。その部分をどれくらい忠実に描き出せるかがSF作家の腕の見せ所でもあるわけで、そこを追いかけながら読んだり観たりするのが楽しいのも事実だ。
しかしこの作品やホドロフスキーエルトポの様な、全く違う世界を描くSFもあって、こういった作品はメタファーとして仮想の世界を舞台にしている場合が多く、得てして芸術性が高い場合が多い。この映画はその最たるものの一つと言って良いと思う。物語が進むにつれて不可思議になって行くテーマ、その流動的なテーマに合わせてクルクルと変わる作風。一本の映画なのに、まるで何度も違う作品を見せられている様な、不思議な感覚。時に学生が16mmで撮ったかのようなザラついた実験映画の様であり、またサイケデリックでロックな映像かと思えば、フィルムノアールのようなハードボイルドの世界だったりもする。そして、その全てのスタイルを見事に演じきっているBowieは、タダモノじゃない。これが映画初主演というんだから、すげえ。
観ながら先を想像するという、普段どうしても無意識に行ってしまう作業は完全に無意味で、それを放棄させられる映画だった。

 海外に流れ着いて、この映画を観ると、感慨深いものがあった。
絆とか、故郷とか、過去と現在と未来とか、一人で生きるってこととか。
「今日は死ぬのにいい日だ」という感覚を失って生きていては、いつ死んでも悔いが残る。
Be Here Now が一番大切なのは間違いないけど、目標を持って生きる事も大事。でも、未来に理想を求めると、現在の価値を見落としてしまいそうになるからね。その失敗は、昔やったし。

そんな時のアファーメーションは、「相手を思いやる優しさを失わず、自分を一番に思える強さを持つ事」です。まさえちゃん。

Wednesday, August 18, 2010

Walkabout



 ケミストリーとは、不思議な物だ。それまで狂おしい程に思っていた相手が、急に特別でなくなったり、今まで全くの知人や友人の一人と思っていた人物が、急に輝いて見えたりするのだから。
生きている内に、そう何度も経験する物ではないけれど、それを感じた時、自分の事がケモノに思えた。なぜなら、いくら言葉で説明しようとしても無理だという事だけが、それについて言葉で説明出来る事だからで、それは完全に理屈を超えた感覚の話。
しかし逆に、そこにまた人間らしいところが関わって来たりする。このケミストリーを起こしたり失ったりする原因は、その相手とのコミュニケーションにあるわけで、その部分は完全に理屈の世界だったりする。たとえば、カッコイイとか可愛いとか、優しいとか頭がいいとか、そういう事だ。人間とは、なんと矛盾を孕んだ生き物だろう。
そこで先のリンクで Breaking up(別れ)を見ると、興味深い事が書いてある。Equity theory(男女間での報酬とコストが等価である事)によると、If a person in the relationship feels that the personal costs of being in the relationship outweigh the rewards there is a strong chance that he/she will end the relationship. と、ある。翻訳すると、恋人同士のうち一人が、その関係を続けて行く上で支払う犠牲(コスト)が報酬 (喜び等)を上回る時、別れという選択をとるチャンスがある、という事らしい。
何とも学者らしいカタい意見で、こいつ本当に恋愛した事あるのかなあ?と思わされるが、一歩引いて俯瞰で見た時に事実こういう部分はあると思う。誰でも自分が一番かわいいし、それを非難する事は出来ない。気持ちを尊重して、自分が損しながら関係を続けていても、結局、熟年離婚する夫婦みたいに続かないしね。そういった意味で、コミュニケーションとは、いつでも抜き身で向き合う真剣勝負の様なもので、お互いの力が拮抗している間はお互いの事を認め合えるという事なのかもしれない。

そんなケミストリーは、人が一生において咲かせる数少ない「花」のようなものだ。当然、その花を讃えるべく古今の人々が唄を歌い、詩を詠み、本を書き、映画を作って来た。しかしこれが、往々にしてラブストーリーという形をとるわけで、そうなるとどうも俺のテイストに合わない。何かこのケミストリーが垣間見せる「野生の不思議」みたいなものが描ききれている感じがしないからだ。ラブストーリーは、何だか人間っぽすぎて、リアルじゃない。でも、この映画 Walkabout は違った。


 二人の兄妹は、車で父親に連れてこられた荒野に居た。突然彼が二人を殺そうとしたため、二人は着の身着のままで砂漠を彷徨う事になる。二人は都会育ちの白人で、自然の中で生き延びる知恵を持たない。乾き、飢えた二人の前に、アボリジニーの青年が現れ、食物を与える。
アボリジニーには、子供の時から聴かされる歌があり、その歌は「先祖の足跡」として伝わる口頭伝承の歴史だ。彼等は、ある年齢になった時に、誰の助けも借りずに荒野を彷徨い、生き延びて村に戻るという伝統があり、それを英語で Walkabout という。ときにそれは半年にもなる長い旅。「先祖の足跡」はオーストラリア大陸の広大な土地を説明しているとされ、彼等はその歌を歌いながら、それを頼りにDream lineと呼ばれる道を辿って旅をする。彼はその途上にあったのだった。
三人は、彼の知恵を助けに荒野で生き延び、旅をする。全く言葉も通じない同士ながら、心を通わせる三人。やがて姉と青年は動物的な感覚でお互いが求め合っている事に気がつく。伝統に基づき求愛のダンスを踊る青年。しかし彼女は最後まで首を縦に振らなかった。なぜなら、時を同じくして彼等は文明の端にたどり着いたため、彼女の意識は、また文明社会へとスイッチしてしまったのだった。
皆、それぞれの世界へと帰って行き、時は流れ、ただ心の奥底に、あの時感じたケミストリーだけが残った。

 人にはそれぞれ、自分が属する集団があり、それは時と場所で変わっていくもの。この二人は、魂で愛し合えたけれど、人間が社会的な動物である以上、共に暮らせないのは仕方が無いのだろう。そして、動物的な感覚で求め合っておきながらも、社会的な感覚に目覚めた彼女が彼を拒絶するあたりが、人間の矛盾を衝いていて面白い。
そしてやっぱり、そこに鈍感なのは男で、そんな男をあっさりと切ってしまえるのが女なんだよなあ。

ところで、さっきの『別れ』の部分の最後にこう結んであった。
This also may go for the rewards outweighing costs in some cases. Breaking up can have intense emotional effects on people.
つまり、「場合によっては、報酬が犠牲を上回る時に別れを選ぶ人もいる。別れは過剰な感情の動きをもたらす。」という事らしい。幸せすぎて辛い、という事か。
ノルウェイの森かよ。バカバカしい。Fuck it.
こんなもん読まないで、Walkabout 観ようね。

Friday, August 13, 2010

Bottle Rocket



 このところ、Werner Herzog の古い映画ばかりまとめて借りていたので、ざらついた画とダークな世界にどっぷりだった。宇宙や自然と、それと対峙する人間を通して真実を見つめようとする彼の視線には、いつもそのヘヴィなテーマとは何か対照的な、人間愛に溢れたヒューモアが見え隠れして思わずにっこりさせられるのだけど、さすがに毎日観るのはキツい。今日は何か清涼感のある映画が観たいと、近所のLost weekend videoに物色しにいった。そうそう、清涼感のある映画といえば、やっぱ Wes Anderson だよな〜、と名前を探していると、彼の長編デビュー作「Bottle Rocket」がブルーレイで入荷してる!!迷わず借りて、速攻帰宅。昼にファーマーズマーケットで買った桃でも食べながら、ゆっくりしますか?
 
 Anthonyは、地元を離れてアリゾナの保養施設に居た。彼にはちょっとハイパーな友達が居て、名をDignanという。彼等ともう一人、Bobの三人は、どこか憎めない間抜けな泥棒。といっても、別に本当に泥棒なのではなく、三人はそれぞれ典型的な裕福な家庭の出で、お金が目的なのではない。彼等はテキサスの新興住宅地に暮らす、人生に苦も無ければ楽も無い、明日の心配も無いけど未来の夢も無い、そんなイマドキどこにでも居そうな若者(映画は96年公開だが、イマドキ多そうな人間を描いているのが興味深い)。
ボブは兄貴がギャングで、いつも兄に対して「俺だっていつかは」とコンプレックスを抱いて生きている。
ディグナンは夢想家のほら吹き。自分の願望を、さも現実の様に喋ってしまう。
そしてアンソニーは、そんなディグナンの無謀とも言える活発なエナジーに憧れを抱く、積極性に欠けるフツーの男。

 ある日、ディグナンがアンソニーを迎えに病院にやって来た。その帰りの道すがら語られる、次の計画。アンソニーにとって、それは何でもよかった。ほら吹きディグナンと、一緒にバカな事を一心不乱にやるという事、それがアンソニーにとって唯一の心躍らせる瞬間だった。アンソニーの実家に空き巣に入り予行演習を済ませた彼等は、地元の本屋に強盗に入る。その成功の祝杯をあげる時、隠れ家にしていたモーテルで、アンソニーは初めて自分から積極的に動きたいと思わされる出来事と出会った。美しいメイド。南米からやって来た英語も喋れない彼女と、彼は言葉を超えた恋に落ちる。しかし、なぜかディグナンは彼の初めての自立を祝福してくれない。深まる三人の溝。そして時は経ち、、、、、、。

 これといって派手な事件もなければ、哲学も思想も無いこの映画。でも三人のそれぞれのキャラと、それが織りなす人間模様はどれもすごく make sense で、大なり小なり見覚えのある誰かに似てる気がした。
きっとアンソニーは、平凡な自分の人生に華を添える方法を知らなくて、出口の無い閉塞感に捕われてる。どうやっても人生は想像の範囲内で、その外側が想像出来ない。だからきっと彼にとってディグナンの存在は、その檻をぶち破るための鍵なんだと思う。
ディグナンは夢想家で、いつもエキサイトして暮らしているけど、きっとそれは友達と何かをやっていたいだけで、子供の時の感覚の延長なんだと思う。
ボブだって力が無い訳じゃないし、本人もそれを知っているけど力の出し方とその場所が分からないだけなんだ。
自分にも、こんな三人組になった事、昔あった気がする。

もしかしたら、今もそうかもしれない。
でも、大人になって学んだ事は、一人で全部出来る力がなければ、何かを人とやる事は出来ないという事。
ディグナン観てると、懐かしくて悲しくて、でも笑えるんだよね。
 

Wednesday, August 4, 2010

Beautiful Islands



 1日から3日まで、ある番組の取材で南のサンルイスオビスポまで車で行って来た。サンフランシスコはいつもの通年変わらぬ曇天だったが、国道101号線を南に20分も下ると西海岸特有のカラッと乾いた夏だった。特にギルロイを過ぎてからの2時間程の道のりは、どこまでも続く小麦色の斜面。まるで芝刈り機で奇麗に刈り込んだかの様な牧草地が、気の遠くなる様な広大な範囲に広がっている。この先、Morro Bay という街に住む取材対象者へのインタビューだった。この場所は州立公園になっていて、大きな一枚岩の前にユニークな植生の森と入り江があって、豊かな自然が残されている。今回は、カメラと音声さんは日本からやって来ていたので、俺はアシスタント兼ドライバー。二人は息の合ったコンビで仕事もスムーズで、見ていてすごく勉強になった。細かい技とかでなく、撮影全体のスムーズ感が居合わせてて気持ちよかった。そんな二人が撮影した映画が先日公開になったそうで、俺も予告しか観てないけれど良さそうなので告知。

 Beautiful Islandsは、地球温暖化の為に近い将来海に沈んで消えてしまうと言われている3つの島々を巡ったドキュメンタリー。静かに暮らす島の人々は、自然と共に何千年も変わらぬ暮らしをして来た。しかし産業革命以降の工業化で、見知らぬ土地が生み出す欲の権化「二酸化炭素」が、彼等から島を奪い去ろうとしている。文化や伝統、そこに暮らす人々の絆などの「失われて行くもの」をカメラに収めたと、カメラの南さんは言っていた。警鐘を鳴らす意味でもっと衝撃的な映像は沢山あったけど、殆どカットだったそうで、そうする事でより静謐なトーンに仕上げ、全体に重みを持たせてあるという。秘すれば華、という事だ。監督はNHK出身の女性、海南友子さん。プロデューサーは是枝浩一さん。歩いても歩いてもは、俺の2008年のベストでした。

 インタビューや道中などの撮影はVaricamで、据わりのイメージショットは5dmkllでと、画の質を変えての撮影で、なかなか凝った事やるんだなーと感心した。上がりが今から楽しみ。しかし、すごい時代になった。Varicamの1/10くらいの値段で買える5dmkllの方が奇麗な画が撮れるんだから。いよいよ誰でもアイディアとちょっとした知識さえあれば映画が撮れる時代になってきた。自宅のガラージで録音した音源を部屋のパソコンで編集して、itune music storeで配信というプロモーションもデストリビューションも要らない流れ、既に音楽が辿った軌跡。ビデオも同じ方向に向かってる。HD cameraで撮影したフッテージを自宅パソコンで編集、YoutubeかVimeoで配信。全部タダ。もちろん、そこからお金作り出そうとしたら、もうすこし頑張らなきゃだろうけど。
こうして、一昔前には専門家でなければ出来なかった事がドンドン素人でも簡単に出来る様になってきたら、この先どうなっていくんだろう?世の全ての人々が表現者たり得る世界?

 勿論、新しい技術が安価に誰にでも享受出来る世界は素晴らしいけれど、こういった単純に価格で商品価値が測れなくなった状態は、資本主義の終焉が近い事を示していると思う。カメラ、自動車、家電品やパソコン等、商品開発に莫大な設備投資と研究開発が必要な物は、商品の消費サイクルが早くなりすぎて、商品化した時点で既に最先端では無いという事が起こりうるし、それだけのリスクを取って開発しても一旦市場に出してしまえば、すぐに中国製韓国製の安価なコピー商品が作られ、駆逐されて行く。SONYが、有機ELテレビの販売から手を引いた。理由はネットの規制に対応してない為とされているが、結局この新商品も単発で終わった。SONYとしては、復活の旗印としたかったようで、これも市場が飽和状態である事を示している例だと思う。企業が一生懸命頑張ったところで、消費者が「もう今のままで充分じゃん」と言ってしまえばそれまでなのだから。競争原理に基づいた社会や、消費と製造に基づいた社会というのに、もうそろそろ皆が飽きて来ている。
企業の皆さん、働き過ぎてないか?あなた達が作る程の量の商品を、私たちは必要としていない。供給過多と、過剰な供給にぶら下がって生きている企業人達。しかし彼等の仕事はそのうち、先述の様な彼等自身の生み出した技術の恩恵を受けた消費者達のクリエイティビティによって駆逐されて消えていくだろう。高度な分業化は終わり、ゆるやかなマルチタレントの時代へ。
羽田空港が10月に国際空港になるそうで、先日新ターミナルが落成して公開された。でも、既に予想されているキャパをさばききれない事が判明していて、落成時には拡張工事の必要性が語られていたという。一体何でそんな事が起こるのか?その二週間前には、東京成田間を36分で結ぶ京成スカイアクセスが開業。成田エクスプレスも在来線もあるのに、これから縮小が見越されてる空港にこんなに電車必要か?物事のスピードが早くなりすぎて、全てが同時に起きているような不思議な時間の感覚。昔、ぶっとんだ友達が "Everything is happening at the same time." と言っていたが、正にそんな感じ。

 真剣に働くのは良い事だし、そこに生き甲斐があるのは素晴らしいと思う。でも、それが競争を伴って必要以上のサービスや製品を生み出し、結果として地球の裏側に居る人達に迷惑をかけるようでは、決して長続きはしない。村上龍が、テレビで「趣味というものがよく分からない。いっぱしの大人ならば自分の一番時間を費やしている事、すなわち仕事が趣味である筈だ」と言っていた。これをプロフェッショナリズムと呼ぶのだとしたら、それはとても悲しい。そして迷惑な話だと思う。こんな人が増えたら、住みにくい世の中になるだろうな、と海外に居る俺は他人事のように思った。

以前紹介した180southのラストでも、patagonia とnorth face の創業者二人が言っていた。
「もし前進という事を話すなら、仮に、真っ直ぐに進んで来て崖の淵に行き着いた時、次の一歩を踏み出す事が前進と言えるのか?今は180度回れ右して次の一歩を踏み出す事が前進と言える時代なのではないのか?」と。