Thursday, March 3, 2011

26世紀青年



 何なんだ、このタイトル。どう考えても「20世紀少年」ありきでつけてるだろ、これ(笑)。
俺がこんなに憤るには理由がある。なぜなら、この映画のタイトル(原題)は非常に意義深く、既にこの作品の一部だからだ。
無意味な邦題が、日本20世紀フォックスDVDの担当者のバカさ加減を露呈してしまっているこの映画だが、実はIDIOCRACYという素晴らしい原題を持っている。
IDIOT(バカ)とDEMOCRACY(民主主義)の造語だ、と日本語版アマゾンのレビューに書かれていたけど、実際はその現代アメリカを象徴する二つの単語をIDIOSYNCRACY(特異性)というもう一つの単語でくくった非常に秀逸なタイトルだ。
このidiosyncracyとは、対応する日本語が無いため翻訳しにくいけど、「ある特定の地域や集団に固有の性癖や特徴」を指す言葉で、正にこの映画が描かんとしている「アメリカ特有の病理」を言い当てていて素晴らしい。

 現代アメリカを風刺したこの作品、公開時に20世紀フォックスが、その内容から観客を刺激する事を恐れて、予告編すらも作られず、宣伝も全くなされず、ある日突然たった130館のみで公開された希有な作品。
この出来事が、ハリウッドが自分達の客をどう考えているかを物語っている。しかも日本でも未公開。
しかしDVDのリリースで火がつき、皮肉にも9億円の売り上げをあげており、この配給側とマーケットのズレこそが、本作のターゲットとしている観客なのだ。

 主人公(オーエンウィルソンの弟、ルークウィルソン)のジョーは、座ってるだけでこれといって特別な仕事もせずに給料をもらっている典型的な公務員(軍人)。身体能力、健康状態、知能等何をとっても「素晴らしい程」アベレージな男。しかも身寄りの無いその彼と、これまた同じ様なアベレージな女性リタの二人を検体として、陸軍が人口冬眠の実験を行った。しかしその直後に担当者が売春斡旋で逮捕されてしまい、計画自体が放置の末、破棄されてしまう。何も知らずに冬眠を続ける二人。
ある日、突然のショックで目を覚ますと、そこは500年後の世界だった。二人が眠っている間に、世界はSFで観たそれとは随分違った進化を遂げていた。20世紀にその進化の頂点に達した人類は、「経済的理由を考えると子供を作れないというIQの高いバカ」と、「何も考えてないから子供ばかり作るIQの低いバカ」の二つに分かれ、当然その子孫はIQの低いバカばかりになってしまい、その後劇的に知能を退化させて行く。農業と医療の発達と天敵の不在がもたらしたのは、自然淘汰の効かなくなり無駄に増え続けた人間達だった。テクノロジーと消費社会は究極の便利さを提供し、人間に「作る」事を忘れさせ、人々は「買う」ことで生活していた。
 そこは完全な管理社会であったため、システムに属していないジョーは早々に収監されてしまう。そこで受けた知能試験で、彼が人類最高の知能の持ち主である事が判明し、突然合衆国内務長官に任命。長年放置され、鬱積した人類の問題を一週間で解決しなければいけない羽目に陥る。何一つ特別でない彼に、はたして人類は救えるのだろうか?

 先日紹介したキンザザと同じだが、この映画は未来を描くという行為を通して現代を描いている。
人々はみなジャージを着ていて、その生地はブランドのロゴで一杯。
言語は乱れ上げていて、会話が成り立たない。
行政機関は民営化が進んでおり、行政サービスにはスポンサーの商品が提供されている。
大統領は元ポルノ男優でプロレスラー(それぞれレーガンとシュワちゃんのメタファー)。
ジョーの弁護士は資格をコストコで購入している。
笑いのテーマは下ネタ一色で、ニュースキャスターも筋肉モリモリと巨乳の二人組。
風俗店に進化しているスターバックスのポリシーの無さが、企業というモノの道徳観の低さを表している。
どれも今現在、現実に起きている事柄を少しだけ捻って描いてあるだけで、実際のアメリカは今すでにこうだと思う。
広い国土とモータリゼーションを基盤にして、50年代にほぼ全ての中産階級にハウジングの供給が済んでしまい、大量消費で生活のコストを抑える事に成功したこの国では、一部の都市生活者を除いてあまり仕事をする必要が無い人達が多い。
家賃を払う必要がなく、モノも安く、食費も安い。パスポートの所持率は6%と先進国でダントツ最下位で、外の世界を全く知らず、テレビが未だに生活の中心というライフスタイルだと、100年もしないうちにきっとこうなってしまうだろうと思ってしまう。
こんな条件の人達、日本の地方都市にもそろそろ増えてくるんじゃないかと思う。

 90年代半ばから2000年くらいまでのコギャルブームの頃の日本も、正にこんな世界だった。
今丁度30歳前後の年代から、大学の定員割れが始まり、ゆとり教育が始まって、日本人は決定的に変わった。
テレビで赤っ恥青っ恥なんか観て、仕込みなんだか本気なんだか分からなくて混乱したのを憶えている。
あ、でも最近だって「羞恥心」とかいう連中が無知キャラで売ってたっけ。

 最近の日本の20歳くらいの子達は落ち着いていてリアリスティックに見えるので、実情を知らない俺の目には、日本は良くなって来ている様に映るが、実際はどうなんだろう?コミュニケーションの薄さと視野の狭さは、ありありと見えるけれど。まだ10年前のように無知が大手を振って暮らしているんだろうか?
そんな事ないと願いたいが、今日また一人、日本にバカを見つけてしまった。
この邦題付けた奴は、きっとこの映画が描かんとしている人物に相違ない。

Friday, February 25, 2011

授かり物は。。。。

男の子でした!!
シンボルが、ばっちり矢印で指されてます。
左下に 「BOY」 って書いてあるのも笑えます。

Friday, February 18, 2011

不思議惑星キンザザ



昨晩、何か洗い物でもしてる時に、突然この映画を思い出した。
この映画について、初めて耳にした時から20年、何故か今まで観た事が無かった。
そして昨日観たこの映画は、丁度20年間ためていた宿題を消化した様な、何とも言えないいい気分にさせてくれた。

買い物に出たヴォヴァと、そこにたまたま通りかかったフィドラー(バイオリン弾きの意)は、街角で声をかけて来た狂人と思わしき人物と関わった事で、突然遠い宇宙の何処か彼方の世界へと移動してしまう。そこは水が枯れ果てた惑星プリュクだった。そこには地球人類そっくりの人間達が、全く違う文化道徳を持った社会を作って暮らしていた。全ての社会的規約は、彼ら二人にとって意味をなさない不思議で不条理なものばかり。見た目も出身地も同じ人間の間に人種差別があったり、マッチが非常に価値のあるモノだったり。
星の住民同士は基本テレパシーで意思疎通を取っており、言葉は「キュー(罵声)」と「クー(それ以外の言葉)」しか無い。しかし、相手の思考がよめる彼等は、二人の話すロシア語をすぐに理解した。全く常識の通じないこの世界から、二人は地球に無事戻れるのか?

監督のレオニード ガイダイは、遠い宇宙の何処かになぞらえて、この俺たちの住む世界を抽象的にユーモラスに描いている。
そうする事で当時検閲の厳しかったソヴィエトの政府を欺き、体制批判を行っていたという。
しかし、本当にそうだろうか?俺には、彼は作りたい物を作りたい様に作っただけにみえる。
もちろん社会体制の批判はメタファーとして含まれているが、意図的に隠してあるというよりは、単純に体制側の人間が、この映画の言わんとしている事が分からなかっただけだと思う。この人みたいに。
そして彼の描かんとしている世界は、俺が物心ついた時から持ち続けて来た大きな疑問を代弁している。

貨幣って何?
それを発行している政府が破産しているのに、何故その貨幣がまだ流通していられるのだろう?
法律って何だ?
もし法律が自由というものを保証しているなら、そこに制約がある時点で自由という概念を自ら否定していないか?
罰金って何?
何故皆、駐禁の罰金を払ったりするんだろう?
誰に、何の為に払ってるんだ?何でそれに値段が決まってるんだ?誰が、何を尺度に決めたんだろう?
土地の所有という概念って何だろう?
土地って誰かの物なんだろうか。元は誰のモノでもなかった筈だから、何千年か前にそれを初めに売った奴が居る筈だ。誰だ、そんなゲーム始めた奴。
17歳の頃、こんな社会の基盤となっている筈のルール達の殆どが、考えれば考える程全く意味を成していない事に気がついて、俺は心底恐怖を感じた。

何で敬語って使わないといけないんだろう?使わなかったら怒る人もいるし、そもそも何故そんなものが出来たんだろう?
FUCKって単語を付けると、なぜ下品になるんだろう?それ自体に何の意味も無いのに。
Fuck youってどういう意味?アメリカ人に聞いても、誰も知らない。
ならば、何故その言葉の意味する所が分からないのに、それを言われると怒れるのかが、また分からない。
裁判官って何故、人を裁く権利があるんだろう?
パスポートとか、ビザって何?
そもそも権利って何だ?義務とは?

でも、年を重ねて、人間というモノがどういう生き物であるかやっと分かり出して来て、怖くなくなって来た。
きっと、ガキの頃の俺は、世界というものが完璧である状態をベーシックに物事を捉えていたんだと思う。
だからシステム自体に不正や矛盾が有る事に、ものすごい生理的嫌悪感があったんだと思う。
生真面目だったんだと思う。

17歳の時にこのフィルム観てても、きっと理解出来てなかったと思う。
でも、今は死ぬ程笑える。

では、英語字幕ですが、下記より全編お楽しみ下さい。

不思議惑星キンザザ part1
不思議惑星キンザザ part2

Tuesday, February 15, 2011

Robert Rodriguez 祭り



前回の最後に少し触れたが、我が家では最近、ロベルトロドリゲス祭りが勃発している。事の始まりは、El Mariach だった。

テキサス大のフィルムスクールを成績不良を理由に退学になりそうになった彼は、$7000という超低予算でこの2時間物を撮ってしまう。当初メキシコのVシネマ用に作られたものだったのだが、いきなりその年のサンダンスフィルムフェスティバルで観客賞を獲り、コロンビアピクチャーズに買い取られて全米公開される。一躍彼はハリウッドの一流監督の仲間入りを果たした。
このEl Mariachi、ロドリゲス自身がプロデュース、監督、撮影、脚本、編集と、殆ど独りで作っており、とにかく低予算で作る為に施された工夫や、撮影行程のオーガナイズが素晴らしく、また内容の微妙にB級な感じがウケて、アメリカではインディーフィルムメーカーのバイブルといっても過言でない扱いを受けている。本編も勿論面白いのだが、それよりもボーナスで入ってる ”10分フィルムスクール” が秀逸。どうやってこの限られた予算で予定のショットを撮ったかを、ロドリゲス自身が解説している。この15分程のいわば「通信教育ビデオ」は俺が学校で習った編集のクラスよりも、ずっと分かりやすく為になった。

El Mariachiでハリウッド入りした彼は、その前年に同じ賞を獲っていたタランティーノと意気投合。彼の助言通りにEl mariachiを三部作として仕上げ、彼自身と共に、当時無名だったアントニオバンデラスをスターダムに押し上げる。このDesperadoOnce upon a time in Mexicoは当時丁度ハリウッドが作るのをやめていた、70年代の低予算B級映画、通称「グラインドハウス」の復刻版というかセルフパロディもので、「ハリウッドが自分を笑う」というコンセプトがウケて大ヒット。その後、この流れはハリウッドスターが自分の過去の役柄を自分で演じるという形で影響を与え、Expendables等、今日まで続いている。

2000年を周り、今度彼がとった行動は皆を驚かせた。それまでのバイオレンス路線を180度方向転換し、ファミリー向け娯楽映画Spykidsを制作する。この映画でも彼は、音楽を含むそのほとんどを独りでこなしてしまう。しかもこれが面白い。子供向けでは無く、ファミリー向けというのがミソで、大人が観ても充分楽しめる。前作で機関銃を打ちまくってたバンデラスが子煩悩なパパを演じているのも笑える。
その後Spykidsはシリーズ化。Spykidsは、彼が彼の子供達の為に作ったファンタジーというコンセプトが見え隠れしていたが、次のSharkboy and Lavagirlではなんと、彼の7歳の息子にストーリーを書かせ、それを映画化している。小2の子供が、おそらく「あのね、そんでね」口調で語ったであろう物語は、前後のつながりやストーリーの整合性に乏しく、かなりサイケデリックな仕上がり。こんなものが映画になりうるのか、とまた唸らされた。

2007年に、ロドリゲスはタランティーノと共同でGrindhouseを制作。これは先程触れた70年代のB級映画の復刻で、タランティーノ監督のDeath proofという下らないカーチェイスものとロドリゲス監督のPlanet terrorというゾンビものの二本立て。当時一般的だった二本立てという配給方法から、フィルムのヤケや傷、当時多かった映写中のフィルム詰まりによる上映中断までを意図的に作り込んであり、ストーリーもベタベタの「あったあったその感じ」なゾンビ映画で、キャラクターとそのキャスティングもまさに「あるある」な仕上がり。当時の低予算な監督達が、それでもやりたい事が有りすぎるが故に全部を一つの映画に詰め込んだ、情熱的な感じがすごくよくプロットに組み込まれていて笑える。さっきまでサスペンスだったのに、急にサイコスリラーになり、次のシーンではコメディ、またその次は戦争モノ、そしてロマンスと、とにかくてんこ盛り。そのどれもが明らかに意図的に中途半端で、俳優陣のシリアスな演技も手伝ってもの凄く可笑しい。
俺はフィルムスクールに行って初めて気がついたのだが、ゾンビ映画とはフィルムメイカーの為にあるジャンルなのだ。さっきまでとってもいいやつだったアイツが、いきなり食べられたり、あんなに奇麗だったあの子が醜いゾンビに、なんてストーリーを、同級生たちは爆笑しながら夜遅くまで頑張って作っていた。当然出演も全員友達だから、試写会の日には、画面いっぱいに引きちぎられる友達の絶叫する下手な演技や血しぶきを観て、みんなでまた爆笑してた。

Planet Terrorの冒頭に、別の映画の予告編を入れるという、これまた70年代にはよく見られた手法を取り入れているのだが、実はその映画は、実在しないものだった。この映画、タイトルをMacheteという。Spykidsで、両親を助けに敵地に赴く子供達をアシストする、Macheteという涙もろく心優しい伯父さんというキャラが居て、ロドリゲスの従兄弟であるダニートレホが演じている。Spykidsで出て来たその心優しいmacheteが、実は殺しまくりのダークヒーローという設定のスピンオフ作品という設定(書いててややこしいな)。Spykidsを観た人達からみれば、「あのマチェテが、実はこんな恐ろしい奴だったなんて!」とそれだけで笑える予告編だったのだが、去年、その反響から遂に映画化され、これまたロバートデニーロ(イタリア人の彼の名前もロベルトと呼ぶべきだろう)やスティーブンセガール等の一流スターが、わざわざベタな役を演じてて面白い。

彼の映画を観てて、いつも思うのは、「なりきる」というのは笑える、という事。彼が笑いの対象にしているものは、ハリウッド映画のアクションスターやセクシーアイドル等、いつも「本気でなりきってる奴」で、そこに現実を知らないが故に描かれる、その人の夢や妄想が垣間見え、その妄想のディティールの甘さや現実とのギャップに笑える要素が詰まっているのだ。
これはカミングアウトを促しているともとれる。つまり、「なりきってる奴ら」を描く事で自分の描くキャラに対する第三者的な観点を表現し、そしてそれを笑う事で対象となる「なりきってる奴ら」に「お前等は笑える人達なんですよ」という明快なメッセージを送っている。そこにある種の愛情が感じられるからこそ、彼のフィルムが、ともすればキャラ攻撃と取られても仕方ない中で、大きなオーディエンスから理解を得ている理由なのだろうと思う。
そういえば、ここで延々と書いて来たロドリゲスの手法と同じコンセプトの映像を最近観た。今年の「笑ってはいけないスパイ」の中盤で流れたミニドラマ「君の瞳に両思い」がそれだ。大鶴義丹、保阪尚輝、田中律子ら90年代初頭の月9ドラマのゴールデンメンバーが、ベタベタな恋愛ドラマを演じていた。あの頃のドラマって、絶対恋愛した事ない奴が書いてた感じバリバリだったもんな。

あの頃、あれ書いてたライター達ってのは、本気だったのだろうか。それとも、爆笑しながら作っていたんだろうか?

Friday, February 11, 2011

Enter the void



東海岸は記録的な寒波と大雪、なんてニュースがチラホラ見える中、SFはもう春だ。
昼夜の気温差がデカくてキツいけど、昼の陽気も、夜のピリッとした冷たさも気持ちいい。
こんな日は、昼の散歩の後、夜、独りでチャリに乗る。
SFはご存知の通り坂の街なので、チャリ乗り達は、坂が少ない道を通って、ドライバー達とは違うマップを頭に入れて暮らしている。
当然勾配の少ない道といえば谷なので、行く方向が同じだと、いきおいそこにチャリが集中する。
その道がいつしかバイクレーンとして整備される様になった。
皆が同じルートを走るとなると、当然そこには速いヤツと遅いヤツがいて、ほぼ同じスピードのやつらもいる。
俺も最近知ったのだが、夜になると、市内の主要なバイクレーンはこういう連中の「ちょいレース」がそこら中で始まってる。
しかも、勿論そのとき一緒に走る相手にもよるが、結構距離が長くなる。
夜の5km位のスプリントレースは、結構息があがる。

今、ひとっ走り競争して、California Academy of ScieneDe Young Musium の中庭でこれを書いています。
知らない奴と自転車で競争なんて、小学校の時以来だな。最近自分の事が小5に思える。
夜中の公園で、意地になって自転車をこぎまくる37歳(中身11歳)。

これまで、自分の過去なんて殆ど気にもせずに、前の事ばかり見て生きて来た。もし仮に皆が俺と同じ様に考えていたとすれば、だから人は自分の子供の頃の記憶を無くしていくんだろうと思う。違うのかな。
そして、子供が出来た事をきっかけに、自分の過去が気になる様になった。
これは180度の観点のフリップだ。
いつまでも過去の自分を忘れたまま目の前にあるものを摂取しつづけていては、子供にモノを教えたり出来はしない。
そして、この日が来るまでにどのくらい自分という人間に多様性や深みを持たせられたかで、人は自分の価値を判断するのだろう。
やりきって満足した事、まだまだやり足りない事、やってみたけど全然好きじゃなかったのに、何であんな事やってたんだろう?みたいな事もある。
そんな事を一つ一つ検証していくと、本来自分が好きだったり得意だった事と、自分が成長する中で得て来たモノとがある事に気がついた。だから、子供にはそれを早いうちから見出して、その様に育ててあげたい。

人には、この「子供が出来る」ともう一つ、自分の人生を振り返るきっかけとなる瞬間があると思う。

それは「自分の死」だ。

死というものについてまだ人類は確たる定義を持てていない。
でも俺は、自身の過去の臨死体験や文章を通して得た情報から考えるに、仮に魂というものが存在するとすれば、事故や自殺や寿命や安楽死などのいかなる状況の死においても、自分で決意しない限りは完全に死というものを受け入れる事が出来ないのではないか?と考えている。
そう考えるには理由がある。なぜなら、「人間の脳は、一度見たものを忘れない」と言われているからで、レインマンに描かれていたサバン症候群の存在がそれを証明している。もし人がよく言われる様に、「死の瞬間に自分の人生を走馬灯の様にリコールする」なら、「人間の脳は、一度見たものを忘れない」のであれば、その人が拘り続ける限り、どんな小さなディティールまでも思い出せる能力が人間には備わっている訳で、人は肉体的には死んだとしても、その魂なり意識なりは、自分が納得するまで自分の人生と向き合い続ける事になるはずだ。

と、ここまでは俺の勝手な想像上での「死」というものだが、今日の映画 Enter the Void は、この問題をチベット死者の書を下敷きとして描いた物語だ。
輪廻転生を信じるチベット人達の死生観を、東京を舞台にそこに住むアンダーグラウンド外人コミュニティ達を例にとって描いている。
このへんの哲学的、宗教的、神秘的なモノは、今の興味の対象ではないので、内容については正直どうでもいいのだが、ヴィジュアルにはやられた。
特に主人公が死んでしまうまでの初めの30分程は、まるで自分がサイケデリックドラッグを摂っているかの様な錯覚に陥る。
好きじゃないのに今朝、起きてすぐに、また観てしまった。この映像にはちょっとした中毒性がある気がする。

まあ、また観てしまったけど、俺はやっぱりPlanet Terrorとかの方が好きだな。

Monday, January 31, 2011

D.I.Y. or DIE



 まだ中学生の頃、パンクロックを初めて聴いた時に、ビックリした。
勿論カッコいいからだった。ザラザラした音質にヤられた。高校に上がる頃、イカ天のお陰でバンドブームだったけど、地元のライブハウスでは、まだレコードから聞こえて来てたようなロックには中々会えなかったから、近所のケヤキ通りのアストロマインドって古着屋に、意味も無く音を聞きに行ったりした。Alley cat Loftもいい音かけてたな。

D.I.Y. Do It Yourself.

「こんなに下手糞で音質も悪くても、レコードって出せるんや。」それまで歌謡曲やテレビから聞こえるポップスしか知らなかった俺には、商品化された音楽でないインディーズの音楽は「生」の質感をもって感じられた。
思えば、パンクの友達は当然かもしれないけどD.I.Y.だった気がする。
パックマンスペースインベーダーズで自分をプロデュースしてたし、小山君はリスクをシルクスクリーンで刷ってた。
ヤッチンも早いうちから東京に出て靴屋始めてた。

 この街は、いい意味で社会的に破綻した人間でも受け入れられる素地があるので、「好きな事しか出来ない」愛すべき人達が沢山いて、彼等は今日も、その持てるスキルで必死に生きている。連中は、当然あまり裕福でない場合が多い。だから自分で何でもやるし、また、出来てしまうから自分でやってしまう。買うという必要があまり無いからお金に対する執着が薄い。だから器用貧乏になってしまう。
 こういうマーケティングから程遠いところで暮らしている人達の作るものは、とても素直でユニークで、難解なのに何故かメッセージが受け取りやすい。一生懸命作られた彼等のジュエリーや服や音楽や絵を前にすると、工業製品のなんと退屈な事かと思わされる。
毎月開かれるクラフトフェアでは、街のアーティスト達が店を出しているからよく覗きに行く。ゆかちゃんと直樹も店出してたな。

 D.I.Y.は2000年代のトレンドだったと思う。買い物に飽きた人達の、当然過ぎる反応だった。今日のこの映画に出て来る連中は、最近までこの街にゴマンと居た類いの連中だ。買う事を拒否して、また自分達の作品を企業に売る事を拒否して、自分達で全てやって行く事。映画は単純にインタビューのつなぎ合わせなのだが、それぞれのキャラの持つ個性と言葉の力強さ、そしてなにより皆が揃って異口同音に同じ考えを口にしてる様に胸がすく思いがした。
インターネットが個人と企業のサイズの違いを埋め、利ざやでメシを喰ってる人達を締め出してる。
人と人が、驚く程近くなった時代。生産者と消費者が直接つながれる。
これから、もっともっと言いたい事がある人や、見せたいものがある人、聴かせたいものがある人達が出てくるだろう。
アートにかかるコストは、信じられないスピードで縮んでいる。

そして、この映画の監督自体もこの映画を予算ゼロで撮って自分で配給してる。
DVDは売ってるけど、買った人にはコピーする事を勧めてるし、第一youtubeに自分で全部アップロードしてしまってる。
このままいけば、いつか皆がアーティストになるんじゃなかろうか?
そんな風に思わされる。

その一方、2010年からの流れは、急激にヤッピー化が進んでいるようにも思える。田舎で買い物とフットボールを楽しみに生きてた様な人達が、この一年で急激に都市部に流れ込んで来た。ウチの近所でも、高そうなイヌ連れた白人がロゴ物のスエット着て、腕にipod付けてジョギングしてたりする。これからどうなる事やら。

日本はどうなんだろう?

Tuesday, January 11, 2011

Star Trek IV - The Voyage Home



 もう、月も半ばになろうかとしていますが、皆さん、明けましておめでとうございます。
2011年。こうして文字(数字?)にすると、なんと未来に来たんだろうって改めて思わされるなあ。
俺なんかは、小学生の頃からノストラダムスの大予言を信じて「自分は27歳で地球と一緒に死んでしまうんや」って思ってたタチだったので、ガキの頃は、21世紀の世界や自分がそこに生きてるってことを想像した事が無かったイタイ子だった。五島勉は、全国の純粋な少年少女だった人達に、謝罪行脚するべきだと思う(笑)。
因に、予言の1999年7月には、実際は25歳だった。足し算もちゃんと出来ないくせに、何を終末論にかぶれてたんだろうか。
思春期に入ってからコッチは、もう殆ど自殺願望的なくらいに、勢いでやりたい事だけやって生きて来たから、実際30歳になった時、「あれ?俺30なのに、まだ生きてるやんか。」って、不思議な気持ちになった(笑)。

 そんな俺は、2001年にアメリカに引っ越して来たから、21世紀の日本を知らない。小泉/安倍/麻生/鳩山/管の日本を知らない。しかも既に現時点で3年も帰ってないし。今、日本ってどんなところなんだろうか?
俺の記憶では、20世紀の日本には90年代に入って緩まったとはいえ、大きな意味で「流行」というものがまだあった。だから概ね皆、似た様な格好で歩いていたし、だからこそ「変な人」や「ダサイ人」という概念が存在していた。人はまだあの頃、ユニクロを着る事を拒否としていたと思う。最近は「国民服」なんて呼ばれてるみたいだけど。
でも、2001年にやって来た時のサンフランシスコは、似た様な格好をしている人なんて殆ど居ない街だった。ありとあらゆる人種が、ありとあらゆる年代のファッションで、いや年代すらも超越した、各々のスタイルで好きな様に暮らしていた。

それを見たときに初めて、Star Warsが何故あんな風に玉石混在の世界に描かれていたのか理解出来た。あれは、これのメタファーだったのかと。そして、あれから10年。最近急激にヤッピー達が増えて来て、街の景色が変わりつつあるが、それでもやっぱりこの街は相変わらず。写真の様なエキセントリックな人達で、今日も街は溢れかえってる。この街にエイリアンが紛れ込んでても、きっと誰も気がつかないと思う。

 先日、初めてスタートレックを観た。きっと、知ってる人達にしてみれば当然の知識なのかもしれないが、俺はまず初めにビックリさせられた。舞台の23世紀の未来では、銀河を統べる宇宙艦隊の本部がサンフランシスコなのだ。あー、そうかもなあ、と、妙に納得。
このシリーズは66年の放送以来、テレビエピソード701話、劇場映画11作を数える壮大な物語で、今生きているアメリカ人のほぼ全てのジェネレーションがこの作品と共に育って来ていて、それ自体が一つのジャンルとも呼べる世界を形成している。実際、これを観て育った世代がNASAに就職し、今日の宇宙開発を牽引していると言ってもいいと、ある友人が言っていた。Star Warsが、科学的根拠を全く無視した「遠い昔の宇宙の何処か」のファンタジーであるのに対して、スタートレックは何処までもロジカルなハードSF。宇宙オタクのハートをガッチリつかんでいる。

 俺が観たのは、初めてながら何故か劇場第4作目。舞台は23世紀の地球。ある時突然、未知の超巨大宇宙船が地球にやって来た。それは解読不能な信号を地球に向けて絶え間なく送ってくるのだが、その信号自体が非常に強力な波動であったため、海は蒸発し、気候変動を引き起こし、地球は突如壊滅の危機に陥る。返答しようにも手段が分からない宇宙艦隊だったが、その信号がクジラの鳴き声と酷似している事に気がつく。しかし、唯一の希望のクジラは乱獲のため21世紀に絶滅してしまっていた。
お手上げに見えた地球だが、ある解決策を思いつく。宇宙船を太陽に向かって放物線を描いて落下させ、その巨大な重力を利用して加速し、光速を超える事によってタイムトラベルして20世紀に戻り、クジラを連れて帰ってこようと言うのだ。
計画通りタイムトラベルは成功し、1986年のサンフランシスコに到着した一行だが、世界は23世紀のそれとはあまりに違い、戸惑うばかり。しかも宇宙船は燃料切れ。お金も一銭も持っていない彼等に、クジラを捕獲する事が、そして23世紀に戻る事が出来るのか?

 初めてのスタートレックだというのに、映画の大半は80年代のサンフランシスコで、しかも反捕鯨問題を含む社会派で、ちょっと変な感じだったが、作品自体はとても面白かった。マニアの間では賛否両論の「らしくない」エピソードだったらしい。
彼等未来人(宇宙人1人含む)が、何の違和感も無く86年のこの街にとけ込んでいるのが本当に笑える。
途中、「これ実話か?」って思うくらい(笑)。

ケンさんが、Star Trek Blu-ray Box setを買って、「これから娘の教育です」と言っていた。
俺も再来年あたりから、子供と一緒に全エピソードマラソンしようかな。
あ、毎日1本観ても、2年かかるや。どうしよう。