Sunday, June 19, 2011

ビーイング・ボーン ~驚異のアメリカ出産ビジネス



ウチの長男がこの世に生まれでてくるまで、後一月程になった。
嫁のお腹は増々大きくなって来て、今産まれても不思議じゃないほど張っている。
正直、ちょっとビビってる。

ウチは出産に当たっていくつか決めたプロトコルがあって、それに従って動いてる。
それは、俺が昔から決めていた事だったのだけれど、それを確信にさせる手助けとなった映画がこの「ビーイング・ボーン ~驚異のアメリカ出産ビジネス」だった。この作品は、分かりやすい歴史とデータをベースに、アメリカの狂った医療事情と、それを当然として受け入れているアメリカ人の「常識」に鋭く斬り込んでいる。詳しくは上記のリンクのライナーノーツを読んで欲しい。

ウチの出産に際しての決め事は、

1-病院での出産ビジネスには参加してやらない事
2-医学的に必要でない限り、無痛分娩や帝王切開などしない事
3-自然分娩で、産婆さんの立ち会いで、基本的に二人で産む事
4-産後は母乳で育てる事

ここで、普通の人達なら「何が特別なの?」と思うかもしれないが、ここアメリカでは事情が違う。
現在、アメリカ人の6割以上が無痛分娩で出産しており、帝王切開も3割を超え(そのうち何割かは無痛分娩とかぶっている事は言うまでもないが)、陣痛促進剤の使用は22%と、ほとんどが自然分娩で出産出来ていないのだ。実際にはその割合はもっと低いと思う。

これは問題だと思う。

もちろん医学的な理由でやむを得ない場合もあるだろう。そんなケースにおいては、「医学が進んでてよかったですね」と言いたい。ウチだって、今のところ順調だが、土壇場になって病院のお世話にならないとは限らない。
しかし、残念ながら大半の理由は、「痛いのが嫌だから」と、もう一つは「医者の都合」なのだ。
陣痛が始まってから出産までは、非常に長い時間がかかる事が殆どだ。
24時間を超える事も珍しくない。
医者の言い分としては、「いちいち全ての患者のそれに付き合ってられない」のだ。
しかもこうした医療の介入は、直接病院の収入となる。
彼等は、自分達のやっている事を「仕事」と思っているのだ。
陣痛導入剤の使用や、帝王切開と無痛分娩の併用によって、医者は自分達の就業時間に妊婦の出産を合わせさせる事が可能になった。
未だに人間は、どのようにして陣痛がそのタイミングで始まって子供が産まれてくるのかを知らない。
母体が決めるのだろうか?
それとも胎児が?
それとも両者の同意によって始まるのだろうか?
いずれにしても、そこにはその二人しか存在していない訳で、自然出産ならば誰も責める事は無い。それ以上でも以下でも無いからだ。しかしそこに医者の都合が介入してきたとしたら、どうだろうか?
胎児にとって、この世に出てくるという人生最初にして最大のイベントを、自分の同意無しに強制されたなら、俺だったら絶対に母親に裏切られたと思うと思う。


 ところで女性の体には、妊娠から出産までの間に様々なホルモンがそのステージにあわせて段階的に分泌される機能が備わっている。
いわゆる女性ホルモンや黄体ホルモンが、初期から後期までの体の変化に対応して精神をも変化させる。
ウチの嫁が太ったり大人しくなったり、優しくなったり眠たくなったり、明らかに情が深くなったりと、教科書どおりに変化しているのを見るのは、非常に楽しい。
人間というのはPCみたいなもので、OSをアップデートすると機能が変わるのだ。
人格まで変わってしまうのには、正直おどろいた。
この通過儀礼を経て、人は大人になるのだと思った。
妊娠も最終段階に入ると、オキシトシンというホルモンの分泌によって子宮の収縮を促し、陣痛が始まり、また痛みを誘発する。陣痛は回を重ねる毎に長さと痛みを増し、その間隔はどんどん狭まって行く。
母親は、この苦痛を究極まで耐えぬいて、いよいよ出産の時に生じる最大の痛みによって、沈痛の為にエンドルフィンというホルモンを一気に放出して、子供を産む。このホルモンには沈痛と同時に、快感を伴う「悟り」に近い精神状態にする効果が在り、この時に感じる快感はエクスタシーやMDMAによって得られる多幸感と同種のものであるともいわれており、経験した事のある方なら想像がつくだろう。
この、「苦痛を絶え抜いた後にやってくる開放感」と「多幸感」によって母親は子供を愛する事を自分にメタプログラムする。
これは科学的に証明された事実だ。

帝王切開や無痛分娩では、このプロセスがない。
それがどう母親や子供に影響するのか科学的なデータは無いようだが、そんな根拠を求める必要があるのだろうか?
これは母親側の話だが、子供の方はどうだろうか?

出産とは、胎児にとって初めて経験する苦痛であり、トラウマ的な体験だ。それをカバーする為にも、出産直後の母親とのスキンシップ(日本ではカンガルーケアというらしい)は欠かせない。そして一番はじめに出る母乳には、分娩で大量に放出されたエンドルフィンが含まれているため、それを呑む事で新生児は母親がその時感じている「多幸感」に似た愛情を共に感じる事となる。つまり母子共にトラウマを共有した後に快楽をも共有する訳で、この「感覚のジェットコースターの相乗り」が母子の愛情を繋ぐ事になるのだ。
そしてこの一番初めの母乳には、母親の持つ抗体も含まれているため、これを呑む事で新生児は環境に対応する。

すごいメカニズムだと思う。こんな複雑なシステムを何故考えついたのだろう?
女という生き物は不思議だ。
帝王切開や無痛分娩では、新生児は当然ながらこの恩恵を受けられない。


 先週のパパさんママさんクラスで、ウチの産婆さんが言っていた。
「痛いからといって、それは当然の痛みですよと放ったらかしたり、また難産の末、不幸にも胎児やその母親が死んだ時に、それを自然な事として受け入れる事が出来なくなった。痛ければ無痛分娩があるし、難産なら帝王切開できる。その結果、いままで成されてきた自然淘汰が利かなくなり、自然分娩出来ない体の女性達がどんどん子供を生んで、これから増え続けて行くだろう。私たちの生きている時代とは、そんな時代です。」と。
遺伝的に自然出産しにくい女性や、陣痛を受け入れる事が出来ない精神的に未熟な女性が増え続ける。。。

状況が好転しない事が分かっていても、自分の成すべき事をやり続けている彼女もまた、戦っているんだなと思った。

Sunday, April 24, 2011

Playstation Network Under Attack!!



 一昨日からソニーのPlaystation NetworkがAnonymousというハッカー集団に攻撃されて機能しなくなったままだ。
早めに分かっていた事だったが、ソニーも相手の名前を伏せた上でオフィシャルに認めたようで、今ネットワークの復旧に努めているようだが、ハッカー達はどうやらもう次の攻撃の準備を済ませているらしく、「次の攻撃は、ネットワークが復旧した時だ」と言ってるようで、どうもコチラの方が一枚上手のようだ。
おかげでCall of Duty World at War のゾンビモードがオンラインで遊べなくなって困っている。
これは本当に不便だ。いつもなら出掛けなくても友達といつでも遊べる。無くなってみて初めて気付くその便利。
何百万人のユーザーが困っているのに、ニュースになって無いのが驚きだ。
この三日間で、とってもすごい金額の損害が出てる気がする。

ハッカー達は:

ソニーはユーザーに対しPS3の改造を認め、FW3.21以前の状態に戻すこと。
ソニーはユーザーが購入した製品に対して法的措置を行わないこと。
ソニーはIPアドレスを元に訴訟を起こすことをやめること。

の三つをソニーに求めているらしい。俺のような素人にはそれが何を意味しているのか分からんし、それが現状で俺にどう不利益な事で、それがこのプロテストでどう改善されるのかも分からん。
その辺の事に無自覚にネットを使っている自分が、原発の事を知らずに無自覚に電気を使ってた連中と変わらないなと思った。
ただ、大きな違いは、プレイステーションネットワークがダウンしても、俺には他にする事がいっぱいあるし、むしろゲームから一時的に距離が置けて助かるし、「知らない」という事が俺にもたらす不利益に関して俺は気にしないという事。
もともと無かった需要を、マーケティングの連中が頭を絞って作り出したニッチなんて、そんなものだ。

そして、それに対して原発がダウンしたら命に危険があるって事だ。

Tuesday, April 19, 2011

Full Metal Jacket



 恐ろしい事が起きた。急に、映画に飽きてしまったのだ。

 フィルムスクールに入学して以来この5年程の間、いわゆる「名作」をずっと観て来た。
俺は今でこそこうして映像業界の末席を汚しているが、元々映画が好きで好きで業界を志した訳では無った。
日本に居た頃は、恐らく大多数の他の日本人達と同じく、殆どハリウッドに独占されていると言っていい環境で、与えられたモノを観ていた。
タイタニック、二回も観たもんな(恥)。

だから、たまたま運の巡り合わせでフィルムスクールに通い出したとき、衝撃を受けた。
アメリカに有りながら、そこでは、俺がそれまで観て来たアメリカの映画など、一つも観せられる事は無かった。
映画を作ってる連中が、実はハリウッド映画など観ていなかったという事実。
目からウロコだった。

 思えば、当たり前の事なのだ。誤解を恐れずに言えば、B'zを本気で聴いてる連中は、その元ネタが Led Zeppelin だと知る人は少ないだろうし、Star Wars を最高だと思っている連中は、きっとその元ネタが黒澤の隠し砦の三悪人だとは思いもしないと思う。世の中には本物よりも素晴らしいリメイクなんてモノもあるし、そのどちらも知った上で「やっぱりStar WarsやB'zが好き」って人も居るんだろうが、俺は基本的に何でもオリジナルの方が好きだ。
そういった意味で自分がインスパイアされた元ネタについてカメラの前で喋ってしまうジョージルーカスは普通の人の感じがして好感が持てる。
昔ハウスのレコードを買い出した頃、元ネタのサルソウルやダンスクラシックを見つけると、何よりも嬉しかった。

 何事もお金の絡む事には、常にその表層にキャッチーな餌がふりまかれていて、ポピュラーであるほど一般的にテイストは薄い。しかし全ての物事にはルーツが在り、それこそが今、そのレプリカ商品やサービスがお金を生んでいるものの正体だと思う。
そのルーツに興味を持てる人間は幸いだ。何故なら、物事の本質を読み取ろうとする彼等のような人種は、無自覚に他人から搾取される事が無いからだ。

 92年頃、藤原ヒロシあたりがやってたパーティーで、立ち上がったばかりのアンダーカバーだったかBAPEだったかがTシャツを売っていた。当然高かったと思う。2パターンあって、一つは売り物で、一つはスタッフ用だったと思う。紺のシャツにでっかく黄色で「U」と緑で「2」って書いてあるだけ。それを喜んで着ている連中を見てぞっとした。
「こいつら、与えられるものなら何でもいいんだな。」って思った。それが何でそのデザインなのかを、もしくはそれが実際カッコいいかどうかを、誰も疑問に思わない事が理解出来なくて、自分がおかしいんじゃないかと思った。
別のパーティーはもっと酷かった。連中は事も有ろうに「stupid」とプリントされたシャツを作って来て、スタッフ用として配っていた。客に無価値な商品を売って、自分のイベントのスタッフをバカ呼ばわりして遊んでいる裏原系の連中が悪魔に見えて来て、俺はわざとそのシャツを着て一晩遊んでやった。こんな連中が作るTシャツを、ありがたがって一万円も出して買ってる奴らが、家畜に見えた。
でも、最近思う。顔の見えない相手から利潤を得る=mass productionとは、そういう事なのだ。

 話が逸れてしまったが、俺はフィルムスクールでそういった「元ネタの掘り方」を散々学んだ。その上で、いわゆる名作を片っ端から観た訳だが、それに飽きて、最近はB級モノばかり観て撮り方と演出の勉強をしたりしていたのだが、それにも疲れてしまい食傷気味だった。

観るモノが無い。
映画がつまらない。

そんな時、この映画を観てしまった。今まで何度も観たし、何も新しい筈は無かった。
でも、今回は決定的に違った。
クーブリックの様な巨匠と呼ばれる人の作品には、それ自体が巨大なオーラみたいなものを纏っていて、撮り方を参考にしようなんて思う事はまず無い。巨大なセットで、莫大な予算と最高の機材、何百人というスタッフを投じて作られるそのような作品に、俺のような一人のカメラマンが参考にすべき点が有るとは思えないからだ。

でも、この映画は違った。

油断していたのだ。こんなに凄い映画を、いつものB級映画を観る目で観てしまった。
すると、どうだろう。たしかに、ベトナム戦争モノでありながら全てをイギリスに建てたセット内で撮影したとは思えない巨大なスケールに圧倒されたが、実はクーブリックはこの映画を、基本に忠実な撮り方で撮っていたのだ。正に学校で最初に習う基本中の基本のような方法で。
ハリウッド映画のような、難しいカメラワークや巧妙な編集、特撮など何も無い。
ほぼ全てのカットが、どうやって撮られたのか観て分かるほど地味なのだ。
こんな質素な撮り方で、こんな巨大な作品が撮れるのかと、恐ろしくなった。
全ては、脚本と演技なのだ。

 ストーリーは二部構成で、前半は主人公であるジョーカーが海兵隊に入隊し、一人の人間から兵士へと育って行く教練過程を描く。後半はベトナムでの実戦シーン。
リー•アーメイの演じる教官の罵詈雑言は、この前半部分の殆どを埋め尽くし、聴く者を圧倒する。しかも一定のリズムを持っていて、聞くに堪えない内容ながら、何故か聴いていたいと思わせる危険な声なのだ。彼の朗々と続く新兵達の人格を全否定した長い台詞と、クーブリックのカットを極力省いた長いカメラワークは完全に共犯だ。
後半の実戦シーンも、音楽は殆ど入っておらず、ただ銃声と兵士の叫びと足音が延々と暗いアンビエントに乗っかっているだけ。それらが不思議なリズムを成していて、前半と合わせてこの映画を「2時間の一曲の音楽のPV」にしている。音だけで再生していても、十分鑑賞に堪えるのだ。

 そして、この映画を観ている時に、ふと気がついた事があった。
入隊初日に、兵士達はまず教官から圧力をかけられて、精神的に去勢されてしまう(一番上に添付しているシーン)のだが、このシーンを観ていて俺はケンさんに「何でコイツらこんな事されて黙ってるんですか?俺だったら殴り返して帰りますけどね。」と言った。その時、自分を長年苦しめてきた大きな疑問を理解した。

何故、人は戦争をするのか?

簡単な事だったのだ。兵士とはこの、自分の人格を否定されるという儀式を通過したときに、それを拒否出来なかった人間達なのだ。その、どう考えても理不尽なロジックを受け入れた時に、人間は権力によって去勢されてしまうのだ。
「人を殺す」という最大の罪を、「他人に命令されておこなってしまう自主性のカケラも無い人間」が居るから戦争は無くならないのだ。
生きて行くのは、大変な事だ。自分が何が出来るのかを自分で探し出し、自分の重要性というものを他人に知らしめながら、社会との結びつきの中でアイデンティティを確立して行かなければならない。
そんな大事な事を誰も教えてはくれない。なぜなら、それは全て自分で気付かなければ手に入らない事だからだ。
そして、時に苦しくとも基本的に喜びであるそのプロセスを、成人するまでに理解出来なかった人間達が、レベルの違いは有れど世の不条理を受け入れて、順次会社や社会の構成員となり、そしてその末端の人間達が軍隊に行く。

 自分が何者で、何がしたくて、何を愛し、何が許せないのか、何が善で、何が悪なのか、自分にとって何が一番大事なのか、そういった自意識の基盤を持ち得なかった人間達だけが、権力という暴力に屈服して、自己の存在定義である「自分の命」を失う可能性のある「戦争」なんかに「他人の意思に従って」足を踏み入れたりするのだ。

そしてクーブリックが描き出す軍隊は、完全にこの一般社会の縮図だ。
人間は、法という目に見えない幻想をシェアすることを権力機構から強制されて生きている。
その基盤となるのは、「罰則」という形の暴力だ。
法を拒否する権利と自由は、それに対をなす罰則によって必ず禁じられている。
つまり、人間は意識するしないに関わらず、法治国家に暮らす限りは、未だに暴力をベースとした恐怖によって統治されている。
一般社会とは、全ての人間がそれを受け入れながら暮らしている場所な訳で、それはクーブリックの描く軍隊と何が違うのだろう?
厳しい訓練をくぐり抜け、自分の個性というものを徹底的に否定され、他の連中と同じ様に振る舞う事を強制され、可能な限り教官から睨まれる事無いよう自ら行動を矯正した兵士達は、「自分で判断する」という責任を放棄して実戦に赴く。

映画の最後にジョーカーは言う。
「五体満足で生きててうれしい。クソみたいな世界だ。けど、俺は生きてて、そして怖くない。」
こうして自分が何をするのかという命題を考える必要がなくなった人間は、安心するのだ。

驚くかもしれないが、俺の知る限り、今アメリカがアフガニスタンとイラクとリビアで誰と何故戦っているのか知っている人は居ない。現場の兵士達も知らないと思う。

俺の様に、教官の理不尽を拒否する様な「協調性の無い」人間には、やはり外国くらいにしか居場所は用意されていないのかもしれない。

Wednesday, April 6, 2011

原発と東京、アエラの表紙(その2)。

前回に引き続き、無関心について書いている。

地震からしばらくの間、人に会うと必ず家族や友人の安否を尋ねられた。
募金箱を置いていたこともあって、客には必ず訊かれた。
そして友人が関東東北に居ると言うと、必ず次に訊かれるのは「彼等はちゃんと逃げられたか?」だった。
そして、彼等が現地に残っているというと、必ず「WHY?」と訊かれた。

何回この会話をしただろうか。その度に、答えに困った。俺にも全く分からないからだった。

勿論彼等は、そして俺も、道路が寸断されて車も流され陸の孤島と化した地域で行方の知れない家族を探しまわる人達の事について話してはいない。
お金も車も体力もあって、その場をすぐに離れられる人間が、放射線を浴びているかもしれない状況で、ただじっとしている事が不可解なのだ。
この日本人とその他の国の人々とのメンタリティの違いは、成田空港に如実に顕われた。
とにかく脱出しようとする外国人達。俺も東京に居たなら一目散でそうしていたと思う。

そして、その時気がついた。俺もカフェの客も、そして成田に殺到した連中も、皆「ガイジン」なのだ。生まれ育った土地を離れて、見知らぬ土地で暮らすガイジン達には、一カ所に留まって土地を守って行くという観念が理解出来ない。
だから俺達のような連中は、被災地に残って頑張ろうとしている人達の事をどうこう言う立場に無い。
彼等の様な土地を愛する人達こそが、地方色や固有の文化というものを作ってきた訳で、その意味において俺は彼等を尊敬している。俺のような飽き性には出来ない事だ。

それに対して不可解だったのが、東京の反応だった。
彼等の殆どは地方から上京してきた人間達で、言ってみれば国こそ捨ててはいないものの、俺達同様に彼等も頭の中は「ガイジン」の筈だ。
だから、俺はてっきりこの事故が起きた直後は、「あー、これで東京はしばらくカラになるだろうな」と思った。
ところが、だった。

原発が爆発しようが空気中から放射能が検知されようが、会社が臨時休業になろうが、動かない。
計画停電でこれまでの生活を維持出来なくなっても、食料が無くなるかもしれないといっても、買い占めに走って動かない。
水から放射能が検出されても、ペットボトルを買い占めて、家ではその水でシャワーを浴びて暮らしている。

驚いた。

地震から半月近く経った今、振り返ってみれば東京にステイする事自体が間違いではなかったと、もしかしたら言えるかもしれない。しかしどうだろう?10年後に後遺症や奇形が増えたりしない保証がどこにあるのだろうか?
少なくとも、あの時点で悠長に構えているのは殆ど自殺行為に見えた。
アエラの表紙が槍玉に挙げられて、謝罪していた。
「放射能がくる」とは嘘なのか?
なぜ謝罪しなければいけなかったのだろう。

ニュースでは連日「農作物の風評被害が懸念される」旨が叫ばれているが、本当に懸念しなければならないのは、間違って汚染されたものを口にしてしまう事なのだ。
漁業も次々と再開されていて、驚く。報道のトーンも基本的にはそれがまるで良い事のように伝えている。

日常とは、その根幹が揺らいだ時に、その事実を無視してまでも維持しなくてはならないものなのだろうか?



ある日本人の友人と、この問題について話していたところ、彼女曰く、「生きるか死ぬかだけじゃなくて、どう生きたかが問題やから」と言っていて驚いた。言いたい事は分かるが、俺には自分の命と引き換えにしてまでキープしたい日常や、成し遂げたい仕事など無い。逆に、生きてさえいれば何とでもなると思う。
皆、命と引き換えにしてもいいほど、そんなに崇高な何かに出会っているのだろうか?
だとしたら、皮肉でも何でも無くその人達は幸せだ。

別の知人は「今出来る事といったら、とにかく政府の言う事やニュースを聞いて判断して、とにかく自分のやる事やっていくだけだろ」と言っていた。自身の危機管理とは、ニュースや政府の発表を尺度になされるものなのだろうか?
日常というのは、そんな明日をも知れないようなギリギリの状態と背中合わせでバランスをとりながら営んで行くものなのだろうか?

今回の事故を自分の事として捉えるには、俺は自分があまりにも身軽過ぎる事に気がついた。

自分を特定の土地に縛り付けるような財産を持ち合わせていない。
何かの大きな組織に属してもいない。
失うのが恐ろしいような、大それた仕事もしていない。
何処に行っても、また1からやり直せるし、怖くもない。
むしろそれは楽しい部分だと思っている。
そんな自分になりたくてそうしてきたし、快適だ。

だけど、今回はそんな自分と日本の間に大きな溝の様なものがある事が見えて、少し寂しくなった。

Saturday, April 2, 2011

原発と東京、アエラの表紙(その1)。

 前回、地震と津波に関してここでお悔やみを述べた。その気持ちは今も勿論変わらない。
復興に向けて動き出している様子を観て、ほっとしている。本当によかった。

 しかし、原発に関しては全く別の話だ。あれは人災だ。
今回、俺は自分では解けない疑問を呈したい。もしかしたら嫌われるかもしれない。
もし腹が立ったり、間違っていると思ったり、または同意でもいい、何か思う所があればメールでも書き込みでもいいから教えて欲しい。俺は今、自分の意見に疑問が挟めなくなっている。

山岸凉子のパエトーンを読んでみて欲しい。

 俺は子供の頃、自分の家の近くに九州エネルギー館という、九州電力が建てたパビリオンがあったため、よく館内で鬼ごっこをして遊んだりしていた。そこには見上げる程巨大な、玄海原子力発電所3号機の原子炉の実物大模型が展示してあり、それが実際に動きながら発電の仕組みをナレーションで教えてくれる。小学生だった俺はナレーションを暗記する程、原子炉の模型で遊んだ。
元々SFが好きで、しかも時は1980年頃、冷戦まっただ中。北斗の拳やWAR GAME、マッドマックスシリーズ、スターウオーズ構想等に代表される様に、「誰かが核のボタンを押せば全てが終わる」という緊張感を世の中が共有していた時代だった事もあって、俺は当然の事として「核」というものの理解を深めていた。

 俺にとって、原子力発電の仕組みを知らないというのは、不思議な事だ。

 俺達は、世界で只一つの被爆国民だ。たった一瞬で、広島で14万人、長崎で15万人が虐殺された。不謹慎だと言われるかもしれないが、今回の津波の犠牲者が推定3万人と言われている状態と比較すれば、30万人を爆殺するという事がどれほど巨大なエネルギーで、かつ人道に外れた事か分かると思う。しかもその後も放射線障害で癌や白血病で苦しみ続けたり、奇形の子供が生まれたりと、こんな恐ろしい事をされておいて、それが何だったのか知らないというのは、のんき過ぎないだろうか?核兵器の恐ろしさは俺達全員が小学校の時、毎年夏に嫌というほど刷り込まれている筈だ。
俺の理解は間違っているのだろうか?それとも、ゆとり教育では日教組の左翼教員達は原爆の事を教えなくなったのだろうか?

 今回の事故の後の報道や、周囲の知人の話を見聞きして、俺は原子力というモノに対する一般的な理解というのがどの程度のものなのか分からなくなって混乱している。俺の周りには、「東電に騙された被災者への同情論」が多い。曰く、「東電に絶対の安全を約束されて建てたのに、こんな事になって可愛そう」だという。

原発の絶対の安全なんてそんなもの、一体誰が信じるのだろう?
自分の家の裏に原発が建てられたら、俺はそれまで通り普通には暮らせない。
原爆が自分の家の裏でゆっくりとお湯を沸かしている。ものすごい緊張感だと思う。
もしその時、俺が原発の事をよく知らなかったとしたら、一生懸命調べると思う。
絶対に、人の説明を鵜呑みにしたりしない。
利害が絡む時、人間とは決して自分に不利な事をわざわざ人に話したりする生き物ではないのだ。
そこを自覚できているかどうかが、「生きる」という事なのだ。
この動画に出てくる、東電のプロパガンダを書いた奴は、きっと普通の顔をした悪魔に違いない。



ある日のニュースで、東電の副社長が避難所を巡って頭を下げていた。それを被災者が大声でなじっていた。
この人には、東電をなじる権利があるのだろうか?
こんな状況で、とにかく誰かに怒鳴りたいというのなら、心情としてまだ分かる。
でも、俺が今現在知る限り、東電が謝罪するべき人的ミスを犯しているという情報は聞かない。
彼等は最善を尽くしているように見える。
俺が初めに「人災」だと言ったのは、原発を建てた事自体なのだ。
そしてそれは、東電と、それに同意した地元住民の共犯だと思う。

誤解しないで欲しい。命がけで反対運動したけど、結果やぶれて建てられてしまった人達も沢山いるだろう。その人達には同情を禁じ得ない。悔しいだろうな、と思うと俺も泣けてくる。
でも、その人達だって東電をなじる権利は無いと思う。原発が建ったのに、動かなかったのだから。
原発が建った後からそこに引っ越して来た人達は、論外だ。

原発が建ったのに動かなかった、老い先短い年寄り達は悲惨だ。この人達は、きっと東電をなじったりしない。動く気力もなく、ただ目に見えない死を受け入れて今も放射能を浴びながら暮らしている。動画を探したが見つからなかった3月26日のFNNのニュースからの抜粋を読んで欲しい。

以下、抜粋:

陸上自衛隊が原発から20km圏内にある避難指示の町をとらえた映像では、人や車の姿はなく、町は静寂が支配していた。
原発までの距離が10kmを切ると、次第につめあとがあらわとなった。
自衛隊が到着したのは、原発からおよそ5kmの福島・双葉町。
ある夫婦が住む1軒の民家を訪れた。
防護服に身を包んだ隊員の姿が、危険さを語った。

自衛隊員「おばあちゃん、ユキコさん?」
女性「はい」
自衛隊員「おじいちゃんは?」
女性「寝てる」

この夫婦は、今も自宅にとどまっており、家族から救助を求める要請が入ったという。

自衛隊員「ユキコさん、おばあちゃん、助けに来たから。川俣の避難所に...」
女性「どうせ、わたしはな、腰が動かないの、寝ることができないの...」
自衛隊員「それでね、たぶん娘さんからも、娘さんのみちこさん。さっきね、朝、電話来たの。電話来て、『救助してください』ってことで、電話来たのね」
女性「わたしはいいよ、どうなってもいいですから...」
自衛隊員「いやいや、そういうことじゃなくて。やっぱりね、一番大事なのは体だから」
女性「すみませんけども、せっかくですけども、わたし、ここで...」

避難所に移るように説得する隊員。
しかし女性は、「体の不自由な人が行っても迷惑になる」と拒否した。

自衛隊員「なんとしても駄目? なんとしても駄目かな?」
女性「うん。ここにおる、どうなってもいいから」
自衛隊員「電気来てないんだもんね、電気ね」
女性「ここに置かしてください。どうなってもいいんで」
自衛隊員「わたし、正直言って、置かしてくださいって言われても」

女性の意思は固く、隊員らは再び訪れることを約束し、家をあとにした。
30km圏内には、寝たきりの高齢者など、今も2万人近い人が、自宅に残っているという。

 これは、何とも救いのないニュースだった。このおばあさんは、爆発した原発のすぐ裏で、普段着のまま暮らしていた。電気も無く、表に人の姿も全く無い、静まり返った死の町で、夫婦でただ暮らしている。

俺が今回問いたいのは、「無関心」なのだ。耳障りなのは勿論承知の上だ。
しかも、俺が問いつめようとしている相手とは、正に上記の老夫婦の様な人達だと思う。なぜなら、福島第一原発の誘致が決まったのが丁度50年前。恐らく上記の夫婦の年代の人達こそが、それを受け入れた当時現役の20代から30代の人達だったはずだ。
添付の動画のようなプロパガンダを鵜呑みにして、自分達の命に関わる安全かどうかの判断基準を他人に明け渡してしまった事は、責められるべき事ではないのだろうか?

 ここまで書いたが、だからといって彼等被災者や老人達にどうこうと言いたい訳では無い。
俺は今更、こんな救いの無い状態の人達を断罪しようなどと言っている訳でも無い。
彼等には、絶望を乗り越えて、今一度生きる力を振り絞って欲しいと、心から思っている。
俺が、わざわざ彼等を引き合いに出して話を進めたのは、実は東京の話がしたいからだ。
上に説明した、今回の事故を引き起こした原因である無関心と同種の無関心が、東京を覆っている様に外からは見える。
そして、それは恐ろしい事に思えてならない。

俺は、誰かの思惑で自分の命を失ったりするのは、絶対に嫌だ。

次回は、このまま東京について引き続き記してみたい。

Thursday, March 31, 2011

大地震と津波

 日本のみんな、元気ですか?
 久しぶりにブログを更新するにあたって、まず、今回の地震と津波の犠牲者と被災者の方々に、心から哀悼の意を表したいと思います。日々入ってくる悲惨なニュースを目にしては、何か出来る事は無いかと心を痛め、週末働いているカフェで募金箱を置いた所、アメリカ人達の意識も高く、あっというまにお金が集まり、ささやかながら日本赤十字に送金する事が出来ました。募金して頂いた方々に、この場を借りてお礼申し上げます。
 地震と津波に関して、自分からコメントする事は何もありません。ただただ、この有史以来の大災害を何とか乗り切って、生き延びて欲しいと願うばかりです。しかし、このまま海外に居て、だんまりを決め込んでいるのは何だか卑怯な気がしてこれを書いています。私は95年の阪神淡路大震災の時、当地に半年ほど仕事で赴いた折り、大地震の惨状を目にしました。今回はあの被害に津波が重なっていると思うと、私のつたない想像力ではもう、どの程度なのか想像がつきません。
出来る事なら直接現地に行って、この身を以てお手伝いがしたいのですが、海外に居る手前それも叶わず、歯がゆい思いをしています。

 テレビから流れてくるおびただしい量の映像に晒されている私たちは、いつでもそれが事実だと受け止める癖がついてしまっていますが、報道自主規制もあって、中々被災地の実情というのはモニターを通しては伝わってこないものだと言う事が、youtubeにあがっていた、とくダネのフッテージを観て実感されました。
そのフッテージとは、とくダネの取材班が、行方不明の母親を探す男の子とおじいさんの二人組に偶然会ったところから始まり、津波で流された車の中でその亡骸を発見するというものです。
大変な反響で、賛否両論あったようなので、もうご覧になった方も多いかと思われますが、以下にリンクを貼っています。
ただし、グロテスクな映像は含まれていないものの、衝撃的な内容なので御自身で判断してクリックして下さい。


これが現実なのだと思いました。そしてこれが、3万件ちかくも今そこで起きている事なのだと。

「今更こんなものを観て、何になる」という意見には私も賛成です。人の苦しんでいる様を観て同情しているのは下品だと思います。でも、この現実に少しでも深い理解を進めておかないと、私はこれから先の人生において、何か大切なモノを失ったまま過ごしてしまいそうに思えるのです。
仮に、この映像を目にしなかったまま過ごしている自分が地震について語っているのを想像した時に、そんな自分に何とも言えない嫌悪感を感じるのです。もちろん、これが全てではありません。その意味で、いくら知識を増やした所で被災者の皆さんとは経験を共有している訳では無いのだから、自分がこの災害について口にする時についてまわる「うすっぺらさ」は拭いきれないのですが、だからといって、じゃあこれについてはもうこれ以上は話すのをやめよう、としてしまっては、またいつか平和ボケした自分が頭をもたげてくる気がして嫌なのです。

 今回の災害に関しては、目に飛び込んでくるニュースに対して、他のニュース同様に表面的な情報として受け取る事も、一つ一つに胸を痛めながら自分の事の様に受け取る事も、どちらも適切でない感じがします。ことさらにニュースを追っかけても、自分にトラウマを植え付けているだけなのは重々承知なのですが、現実感を伴った目を持ってニュースに接するという事は必要な作業だと思いました。

Thursday, March 3, 2011

26世紀青年



 何なんだ、このタイトル。どう考えても「20世紀少年」ありきでつけてるだろ、これ(笑)。
俺がこんなに憤るには理由がある。なぜなら、この映画のタイトル(原題)は非常に意義深く、既にこの作品の一部だからだ。
無意味な邦題が、日本20世紀フォックスDVDの担当者のバカさ加減を露呈してしまっているこの映画だが、実はIDIOCRACYという素晴らしい原題を持っている。
IDIOT(バカ)とDEMOCRACY(民主主義)の造語だ、と日本語版アマゾンのレビューに書かれていたけど、実際はその現代アメリカを象徴する二つの単語をIDIOSYNCRACY(特異性)というもう一つの単語でくくった非常に秀逸なタイトルだ。
このidiosyncracyとは、対応する日本語が無いため翻訳しにくいけど、「ある特定の地域や集団に固有の性癖や特徴」を指す言葉で、正にこの映画が描かんとしている「アメリカ特有の病理」を言い当てていて素晴らしい。

 現代アメリカを風刺したこの作品、公開時に20世紀フォックスが、その内容から観客を刺激する事を恐れて、予告編すらも作られず、宣伝も全くなされず、ある日突然たった130館のみで公開された希有な作品。
この出来事が、ハリウッドが自分達の客をどう考えているかを物語っている。しかも日本でも未公開。
しかしDVDのリリースで火がつき、皮肉にも9億円の売り上げをあげており、この配給側とマーケットのズレこそが、本作のターゲットとしている観客なのだ。

 主人公(オーエンウィルソンの弟、ルークウィルソン)のジョーは、座ってるだけでこれといって特別な仕事もせずに給料をもらっている典型的な公務員(軍人)。身体能力、健康状態、知能等何をとっても「素晴らしい程」アベレージな男。しかも身寄りの無いその彼と、これまた同じ様なアベレージな女性リタの二人を検体として、陸軍が人口冬眠の実験を行った。しかしその直後に担当者が売春斡旋で逮捕されてしまい、計画自体が放置の末、破棄されてしまう。何も知らずに冬眠を続ける二人。
ある日、突然のショックで目を覚ますと、そこは500年後の世界だった。二人が眠っている間に、世界はSFで観たそれとは随分違った進化を遂げていた。20世紀にその進化の頂点に達した人類は、「経済的理由を考えると子供を作れないというIQの高いバカ」と、「何も考えてないから子供ばかり作るIQの低いバカ」の二つに分かれ、当然その子孫はIQの低いバカばかりになってしまい、その後劇的に知能を退化させて行く。農業と医療の発達と天敵の不在がもたらしたのは、自然淘汰の効かなくなり無駄に増え続けた人間達だった。テクノロジーと消費社会は究極の便利さを提供し、人間に「作る」事を忘れさせ、人々は「買う」ことで生活していた。
 そこは完全な管理社会であったため、システムに属していないジョーは早々に収監されてしまう。そこで受けた知能試験で、彼が人類最高の知能の持ち主である事が判明し、突然合衆国内務長官に任命。長年放置され、鬱積した人類の問題を一週間で解決しなければいけない羽目に陥る。何一つ特別でない彼に、はたして人類は救えるのだろうか?

 先日紹介したキンザザと同じだが、この映画は未来を描くという行為を通して現代を描いている。
人々はみなジャージを着ていて、その生地はブランドのロゴで一杯。
言語は乱れ上げていて、会話が成り立たない。
行政機関は民営化が進んでおり、行政サービスにはスポンサーの商品が提供されている。
大統領は元ポルノ男優でプロレスラー(それぞれレーガンとシュワちゃんのメタファー)。
ジョーの弁護士は資格をコストコで購入している。
笑いのテーマは下ネタ一色で、ニュースキャスターも筋肉モリモリと巨乳の二人組。
風俗店に進化しているスターバックスのポリシーの無さが、企業というモノの道徳観の低さを表している。
どれも今現在、現実に起きている事柄を少しだけ捻って描いてあるだけで、実際のアメリカは今すでにこうだと思う。
広い国土とモータリゼーションを基盤にして、50年代にほぼ全ての中産階級にハウジングの供給が済んでしまい、大量消費で生活のコストを抑える事に成功したこの国では、一部の都市生活者を除いてあまり仕事をする必要が無い人達が多い。
家賃を払う必要がなく、モノも安く、食費も安い。パスポートの所持率は6%と先進国でダントツ最下位で、外の世界を全く知らず、テレビが未だに生活の中心というライフスタイルだと、100年もしないうちにきっとこうなってしまうだろうと思ってしまう。
こんな条件の人達、日本の地方都市にもそろそろ増えてくるんじゃないかと思う。

 90年代半ばから2000年くらいまでのコギャルブームの頃の日本も、正にこんな世界だった。
今丁度30歳前後の年代から、大学の定員割れが始まり、ゆとり教育が始まって、日本人は決定的に変わった。
テレビで赤っ恥青っ恥なんか観て、仕込みなんだか本気なんだか分からなくて混乱したのを憶えている。
あ、でも最近だって「羞恥心」とかいう連中が無知キャラで売ってたっけ。

 最近の日本の20歳くらいの子達は落ち着いていてリアリスティックに見えるので、実情を知らない俺の目には、日本は良くなって来ている様に映るが、実際はどうなんだろう?コミュニケーションの薄さと視野の狭さは、ありありと見えるけれど。まだ10年前のように無知が大手を振って暮らしているんだろうか?
そんな事ないと願いたいが、今日また一人、日本にバカを見つけてしまった。
この邦題付けた奴は、きっとこの映画が描かんとしている人物に相違ない。