Tuesday, July 13, 2010

うる星やつら2 "The Beautiful Dreamer" / Shutter Island



 久しぶりに覗いたビデオ屋に、これが新作コーナーに何故か紛れて置かれていた。何故に?と興味本位で手に取ったのだが、遠い昔に、この映画は他のうる星やつらとは違うという話を聞いた事があったのを思い出し、「お薦めしません」というビデオ屋の忠告を他所に、バカは二度海を渡るというモキュメンタリーと一緒にそのままカウンターで払いを済ませた。

 なぜか最近うちでは、クローネンバーグのExistenzやスコーセッシのShutter island等の、リアリティーを捻ってとらえた映画達が続けざまにやってくる。日本でサイケデリック文化が隆盛を極めた90年代はじめから中頃に、この手の映画は片っ端から観まくった。Blade Runnerに始まり、AKIRA、12モンキーズ、バニラスカイやダークシティ、未来世紀ブラジル、カフカ、古いものではJacob's Ladderなど。共通しているのは全て「リアリティとは、脳が作り出しているものであって、それ自体ではない」というテーマで作られている事。
時代的にはこれらの映画と丁度同じ時期に作られた本作は、アニメであるにもかかわらず、それらに引けを取らない強烈な映画だった。

 高校を卒業した俺は、必死に働きながら日々を暮らしていたが、同時に疑問を感じていた。学生の時分はあんなに輝いていた毎日が、社会に出た途端に同じ事の繰り返しの日々となり、あんなに長かった一年が、あっという間に流れていく。気がついたら5年も働いていて、何も変わってない。これは一体何だ?何かがおかしくないか?
体の内側から押し寄せる成長ホルモンに押され、リアリティを求めて飛び出した街では、サイケデリックドラッグと音楽が渦を巻いていて、自分と同じ疑問と正面から向き合う仲間達がうねりに身を任せていた。そこでは、大地のリズムが爆音で轟いていた。乾いた四つ打ちのリズムは自分が子供の時から馴染んだ宇宙のリズムだった。チープな誰か知らない人の自己主張など要らない。もっと大きい不動のリズムと共に生きている感覚。共時性。
そんな時代だった。毎週どこかの山奥ではパーティーが開かれ、街に居る時にはヘッドショップでキノコが合法で買えた。90年代の日本は、もしかしたら60年代のアメリカよりもサイケデリックドラッグを消費したんじゃなかっただろうか?俺達は夢中だった。このまま精神の力で加速していって、リアリティをぶっちぎるんだと思っていた。毎日が凄く刺激的で、夏が一年の核をなしていた。しかしその一方、1999年や2012年といった終末論者達の指すゴールが、すぐそこに待っているのを俺達は横目で気にしていた。

 これらの映画は、その頃に封切られたものが多い。俺達は、その歪んだリアリティを側面から眺めたりしながら楽しんだ。当初サイバーパンクに代表されるこの手のストーリーは、JMやトータルリコールのように決まって最後に主人公が世界や宇宙や時間や、ひいては存在すらも救ったりする痛快な娯楽だったために、抵抗無く受け入れられた。しかし映画とはいつも、時代を映す鏡。エンディングに陰の有るものや、オープンエンディングとして制作者自体が答えが分からないという事を公にしてしまう映画が段々と増えてきて、この社会全体に黄信号が点滅している事を伝えていた。
そんな中、俺の周りでも一人また一人と、自ら命を絶つ者も出て来た。
俺達の掲げたユートピア像と現実の軋轢が、大きな陰となって頭上を覆っていた。何事も納得するまでやってみたい性分の俺は、そのライフスタイルが継続出来ない事を悟り、日本を捨てた。アメリカなら他人に邪魔されず、思った事を気の済むまで試せると思った。他人の力でそれを邪魔されたならば、俺も死んでしまうかもしれない。マヤの人々が時間の向こうから手招きしている。嫌だ。
それだけが、俺に残された生き残る方法だった。

 結果、俺の選択は正しかったと思う。俺は、自分の信じるリアリティを追求し、旅をして、人に会い、答えを得た。今振り返ってみて、悔いは無い。ある部分俺が正しかったし、ある部分は間違っていた。ただ、それは正面から社会に向かって吠えたからこそ得られたものなのであって、あのまま日本に居たら、きっと今頃まだ、自分の理想を正当化する作業に腐心していたと思う。当時の友達の中にはまだ、それを続けている者も居る事を、ブログ等を通じて目にする。田舎暮らしやオーガニックも良いけれど、それは既に、70年代にヒッピーの残党がアメリカでやってみせた事で、それが何も変える力が無かった事を、時代が証明している。
ヒッピーイズムは結局、情報過多に対する拒否反応みたいなものだと思う。知らない人が多すぎて飽和状態だから田舎へ。家賃が高くて家は小さいし、不動産を買うのはナンセンスだから田舎へ。食品の流通が不透明で怖いから自給自足へ。どれも納得出来るし、恐らく俺も日本に今住んでいたらそうするかもしれない。けれど、それって目線は内側に向いているんじゃないかな?と思う。

 そういった、内向きのユートピア思想こそが、このうる星やつら The Beautiful Dreamerの主題で、押井守は当時既にその思想にNOを出していた事が、映画から観てとれる。学園祭の準備に追われるアタルやラム達おなじみの仲間。しかしそのお祭り気分の中に、何かおかしな空気を感じる者達がちらほらと出てくる。もしかして、俺達はもうずっと前から学園祭前日というこの日を何度も何度も繰り返し生きているんじゃなかろうか?学校の外の街の人達は姿を消し、俺達はただいつまでも友達と楽しくやっていくだけ。。。。。

 結局人間は、どこまで行っても他人と関わり続けなければ生きていけないし、その中に喜びや輝きを見いだせなければ生きていけない。そしてそれは、知人との閉鎖的な輪の中には存在せず、いつも理解しがたい他人との接触を昇華したときにこそ見つかる宝なのだ。

No comments:

Post a Comment