Saturday, July 17, 2010

The Wrestler



ミッキーロークって、こんなに凄い役者だったっけ?
と、映画評に書かれてたのは、何度も目にしていた。でも、ミッキーロークでしょ?って思ったのも事実。nine halfの濡れ役やAngel Heartでのロングコートを着た優男、ランブルフィッシュでのにやけた喧嘩のつよい兄貴役、Harley Davidson & Marlboro Manのバイク乗りなど、これまでの彼の役所はいつも「何だかこいつ、自分の事勘違いしてねえか?」と思わされる役ばかり。そこへきて、例のプロボクサー転向&猫パンチ事件。俺はてっきり彼はケビンコスナーと同類の、自分の事を大きく見せたいヤツだとばかり思っていた。でも、確かに予兆はあった。Sin Cityで見たミッキーは、以前とはまるで別人だった。大きな顔に、腫れ上がった筋肉質の体。声はしゃがれて、聞き覚えのある甘いささやきは何処かへ消えていた。「お?」と思ったものの、特殊メイクで覆われた顔からは、本当の姿を伺うのは難しかった。
しかし、今回は話が違った。役は、年老いたレスラー。しかも、マイナーなレスラーだった。

 主人公Randy "the Ram"は、80年代に一世を風靡したレスラー。しかし20年の月日は容赦無しに現実を彼に突きつける。かつては大きなホールを満員にした彼も、今は三流のマイナー団体に所属して、地方のファンをわずかに喜ばせているだけだった。しかし、どんなに生活に困窮しようとも集客が小さくなろうとも、スポットライトを浴びる事が彼にとって全てだった。観客の前でリングに立つ。そのために家族も顧みずにここまでやってきた。しかし、気がつけば独り。かつての栄光は影を潜め、トレーラーハウスの家賃も滞納する現実。
体を持たせる為に薬物に頼り、日サロに通い、髪を金髪に染め、自分が白人のアメリカンであるという現実とは違うアイデンティティを作り続けていく毎日。そのイメージこそが彼に求められている姿だと、彼は知っている。だがある日、彼の心臓が悲鳴を上げた。
気がつくと病院。医者は彼に引退を宣告する。もともと潮時を感じていた彼はそれを受け入れ、華々しい世界を去り、遅過ぎる社会人としての再出発を切る。何とか手に入れたスーパーの食肉売り場での代わり映えのしない毎日。しかし安定しかけた生活も、些細な事が原因で、すこしづつ歯車が狂っていく。夢を追って生きて来た自分には、無理矢理一般社会にはめ込んだ今の自分は、受け入れるには惨めすぎた。。。。

 「夢に向かって生きる」というアイディアは、現代に生きる俺達にはごく聞き慣れたものだし、それに対して全身全霊で取り組んでいる人も居れば、諦めた人も、そういう考え方自体に懐疑的な人も居る。でも、大なり小なり誰もが頭の片隅に意識しながら日々の生活をおくっているとも思う。それはあまりにも俺達の社会に浸透していて、無視する事は無理ではなかろうか。
でも、この「夢に向かって生きる」とか「自己実現」とかいうアイディア自体が実は比較的新しいものなんじゃないかと思う。
グアテマラの山奥やホンジュラスの離島等、メディアの影響の届きにくい僻地を旅して思うのは、人々はただ必死に生きているという事。勿論子供達に訊けば、先生になりたいとか医者になりたい等の答えが返ってくるのだが、それは基本的に暮らしがベースにあっての夢なのであって、何か遠い世界の見聞きしたものを夢見ている訳では無い。

こういった夢を追うという生き方は、アメリカが広めたものだ。
"American Dream"
この国では人々は皆、何かに成る為に生きている。大学進学率は60年代以来、過半数を超えている。つまり、半分以上の人々が「何者か」に成る為に努力しているという事だ。
このような社会では、自己実現を果たした人は賞讃され、そうでない人々は夢の燃えカスを抱えながら余生をおくる事に成る。

 こう書きはしたものの、2000年をまわったあたりから様子が変わって来たのを俺はじっと見て来た。俺が着いたばかりのアメリカは、分業化が社会の隅々まで行き渡り、プロフェッショナルでなければ生きていけない厳しい社会だった。でも、サンフランシスコはそういった流れを嫌って「小さい社会」を目指して進化していた。自転車ベースの移動に、バーターを勧め税金を可能な限り生活から排除し、ガレージセールや物々交換、ゴミの再利用をすすめてきた。街にはインディペンデントなイベントやギャラリーが増え、バンドも地元のハコで続けている。メジャーとアングラの境界は無く、意外と有名なアーティストが普通に街で落書きしていたりする。
日本に帰る度に思うのは、新しい技術を生活に無理なく取り入れて進化しているという事。2年ぶりに帰ったりすると、見た事も無いサービスが浸透していたりして驚かされる。俺にとって日本は22世紀だ。
一方、この街は別の意味で未来を走っている。50年代の黄金期を経て、物質的な豊潤を貪りながらアメリカ社会は衰退の一途を辿って来た。社会とそこに住む人々は、今の日本が経験している行き過ぎた個人主義や所得格差、地方都市の人口集中やドーナツ化現象などの問題を一足先に経験したある意味成熟した社会なのだ。
ハレとケを共に通り過ぎ、アメリカは今、黄昏の時を迎えている。

都市部に自然発生した村社会、サンフランシスコ。それは日本の未来の姿を示唆しているのかも知れない。


 

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