Monday, July 12, 2010

Children of Heaven



 昨夜は、結局亮君は、SF Independent film festival のエキシビジョンとして行われているライブを観に行ってしまい(しかも途中で気が変わって行かなかったらしい)、イブは家でゆっくりしたいという理由で、残念ながら吸血少女VS少女フランケンは次回に持ち越しとなった。あの映画を一人で観に行く程B級映画ファンという訳でもないので、俺は仕方なく家でハードドライブの整理と映画を観ることにした。

 こんな寒くて友達も誰も居ない独りの夜は、優しい映画に限る。
大人な世界や、それに絡むいろんな事情、街の暮らしに疲れた時に、俺はよくイランの映画を観る。
実際行った事が無いのでこうだとは言い切れないけど、イランの人々は恋の告白に詩を詠む習慣があるほど繊細な文化と感性を持ち合わせていると聞く。その真偽の程は別として、イランの映画を観るたびに、それはまんざら嘘でもなかろうな、と思う。
ランダムに選んだイランの監督達の作品は、どれも何とも言えない優しさに溢れていて不思議な統一感を共有している。
今夜の作品 Children of Heavenも、そんな作品の一つだった。

 主人公は恐らく小学校高学年の兄妹。二人は進んで家事をこなす、よく出来た子供。
一方、彼らの父親は稼ぎも無く、それを家族に八つ当たりするダメなオヤジ。子供達二人は彼の目を気にして暮らしている。
そんなある日、兄は買い出しの途中で、修理を済ませたばかりの妹の靴、しかもたった一足しかない靴を無くしてしまう。
明日から学校に履いて行く靴が無い妹と靴をシェアする事を兄は思いつく。それこそが、新しい靴を買う余裕もない彼らの唯一の方法だった。午前中は妹が履いて学校ヘ行き、放課後走って待ち合わせ場所へ急ぎ、兄と靴を交換してサンダルで帰る。
そんな付け焼き刃の嘘は、何度かの衝突を経ながらも、上手く行っている様に見えた。
しかし、そんな誤摩化しは永遠には続かない。
兄のスニーカーは擦り減り、汚れていく。妹はそれを恥ずかしいと感じるようになり、それを観た兄は、何とか彼女に靴を手に入れる方法を考えていた。そして。。。。。

 ハリウッドに毒されていない人々というのは、こんなにも慎ましく純粋で居られるものかと、嫌でも思わされる世界観。
子供の頃、ただの鉛筆一本でも、お気に入りのものを見つければ、ずっとハッピーで居られたあの頃。
別に決して「子供の頃が一番良かった」なんて話ではなくて、子供の頃の自分は今でも自分の一部なのであって、今も共にココに居るという感覚を、はっと気づかされた。人間は歳を重ねると子供の頃の記憶を無くしていく生き物だ。その時、人によっては生まれながらの自分の嗜好とは違うものに目を向ける人や、またそれをサバイバルの方法として敢えて身に纏う人も居る。特に俺たち80年代に少年時代を過ごした世代は、テレビというメディアから一元的に情報を与えられて生きて来たため、そういった人間が多い。「カッコイイ」は基本的にテレビや雑誌から与えられるもので、それをほぼ全ての国民が共有しているという共同幻想の中で俺達日本人は、長い事生きて来た。その枠組みの外側に、「自分のカッコイイ」を標榜するものは敵とされた。理解出来ないものは、不快なモノ。そういった不自然な価値観は当然色々な歪みを生んで、バブルの狂乱と相まって、90年代のいわゆる失われた10年を形成していった。
猿岩石に代表される「自分探しの旅」が共感を呼んだのは96年、俺が22歳。オウム事件が起きた頃だった。
見境無く垂れ流される情報とは暴力であり、テレビの様に内容も知らせずに情報を受け取らせる行為は、マインドに対するレイプに他ならない。インターネットの解放によって、今の子供達はきっと、その生来の資質を見失う事無くまっすぐに伸びていけるだろう。情報という意味において、彼らには俺達には無かった選択の自由がある。それは社会の成熟を示していて、それを理解する事が出来ない大人たちを尻目に、堂々とこの世界を受け継いで欲しい。

 最近、要らないモノをどんどん捨てて究極までシンプルになろうとしてる中で、そんな子供の頃の自分の存在を、自分の中にボンヤリと感じて手探りで探していたところだったので、この映画を観てスパッと決まった感じがした。
あの頃の自分に、色んなものをくっつけて今まで生きて来た。
でも、一度纏ってみなければ、それが自分に合うのかどうか、分からない人達ってのも居るんだよ。

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