Wednesday, September 8, 2010
めがね
自分というものをしっかりと維持して生きて行くのは、とても大事な事だ。そうでなければ、この競争社会を生き延びて行く事は難しい。油断していたら、脇が甘くなって失敗したり、最悪の場合、仕事を奪われたり失ったりしてしまう。仕事だけじゃない。年齢を重ねれば持ち物も、やらなければならない事も増え、それらに関する責任等も右肩上がりに増えて行く。法的な責任なんかも出て来て、とても一人で全部は対応出来なくなるから会計士や税理士、弁護士なんて仕事がもてはやされるのだろう。営業マンや、家庭を持っている人達なんて、俺の想像の範囲の遥か外側でその重責を担っていると思う。もちろん誰もが何となくそれに慣れて生活している訳だが、都市生活を営む上で、シンプルライフとは、ほぼ死語となりつつある気がする。
そのテンションを維持する為には、時には自分の意見を信じて疑わない堅固なエゴを持って臨まなければならない事もある。俺の様に、カリフォルニアのゆる〜い時間の中で生きていてもそれを思ったりするのに、ストレス社会の日本で働いてる人達はきっと大変だろう(と、書いていて気がついたが、俺がそのプレッシャーを感じているのは、日本から受けた仕事の時だけだな)。
「めがね」は、そんな都会の喧噪から逃れて南の島へ来た一人の女性タエコが、偶然泊まった宿で出会った人々との交流を通して、戸惑いながらもその凝り固まったエゴを脱ぎ捨て、リラックスした本来の自分を取り戻す、旅の物語。
彼女がそこを選んだ理由は、単純に「携帯の電波が通じない所だから。」う〜ん、分かる。日本に居て車屋だった時、昼夜となく鳴るお客からの電話にうんざりして、コッチに来た時に電話が無くて凄く生活がリセットできたと思った。懐かしい。そんな彼女は、いつでも価値判断の基準を自分に置いていて、それを疑うというアイディアすら持っていない。
宿に流れるスローな時間と自分とのギャップを不快に感じた彼女は、二日目にしてチェックアウト。無礼極まり無いのだが、本人のロジックでは当然だと思っている事が、態度にありありと出ていて可笑しい。結局は、後に戻ってくる訳なのだけど。
宿の人間とは言わず、近所の誰もが食べている浜辺のかき氷も、何度勧められても「かき氷は苦手なんで」の一言。その度に、それを美味いと知っている皆は、彼女の「やらかしちゃった感」を残念に思っている始末。
こういう、「走りすぎて擦り減った時」というのは、誰にでもあるのだろうか?
俺には、そんな覚えがある。メキシコを旅していた時、その旅自体をナメてかかっていた俺は、英語が全く通じない環境に相当なストレスを感じていた。ローカルの人達と全くコミュニケーションが取れない。話せる相手は宿に居るバックパッカー達だけ。靴磨きのオヤジにはスエードのブーツに表皮用のオイルをべったりと塗られてしまうわ、バスのチケット代はボラれるわ、どこに行ってもシャワーは冷たいし(メキシコは高地が多く、結構寒い所が多い)、とにかく頭に来てた。そこで、スペイン語を話さなければこの先ずっと楽しくないと確信し、学費が安いと噂だった全く未知の国グアテマラへ、旅もそこそこに、一気に南下した。
街に到着し、宿で紹介された学校に真っ直ぐに向かうと、ニコニコした受付の女性が対応してくれた。が、彼女、スペイン語でしか対応してくれない。今思えば当然の対応なのだが、その時の俺には、そんなことを思う余裕は全くナシ。スペイン語が話せないから勉強しに来てるのに、何でせめて英語で対応してくれないんだ?と、全くポイントのズレまくった怒りが湧いて来た。何とかかんとか頑張って入学費を払い手続きを済ませると、彼女が訊いて来た。
「どんなホストファミリーが希望ですか?」
今の俺ならきっと、「トラディショナルなインディヘナ(原住民)の家庭で、マヤ語や織物の勉強がしたい」とか気の利いた事が言えるのだが、その時の俺が見舞った一発は、なんと
「暖かいシャワーが出る所」
だった。あ〜、今思い出しても恥ずかしい。顔から火が出そう。我ながら本当に残念です。しかもそこで紹介されたお宅は確かに奇麗なお宅だったし、ホストマザーも素晴らしい人でしたが、ステイ三日目から三日間、高熱と下痢続きで寝込んでしまい、熱いシャワーもへったくれもありませんでした。。。。
そんなダメな俺にちゃんと看病してくれて、ホストマザーとその娘、そしてイヌのチェステルには、今でも感謝です。お陰で体調も回復し、学校でバリバリ勉強して、残りの旅は、一生心に残る素晴らしいものになりました。
これには後日談があって、2年前、その旅から丁度4年後に同じ街に撮影で行く機会があり、その家を訪ねるかどうか考えていた。しかしステイも短く、それほど美談と呼べる様なエピソードを残したわけでもない、何の変哲も無い留学生の一人だった俺が、今更突然顔を見せた所でどうだろう?と思っていた。そうして一週間程が過ぎ、ある現場でクルーとカメラを回していた所、何とあのホストマザーが突然そこを通りかかった。しかしこちらはインタビューの撮影中。私語は勿論厳禁だ。俺は精一杯のテレパシーを送ってみた。それが通じたのかどうか分からないが、彼女は撮影中の俺達を一瞬見た。でも、その時の俺は、髪の毛は腰上までありヒゲも生えていて、とても当時とは似ても似つかない風貌。頑張って会釈をしたら(当然現地には会釈等という習慣は無い)、向こうはちょっと不思議に思った様だが、コチラに笑顔を向けるとそのまま行ってしまった。あの時、お礼が一言だけでも言いたかった。。。。。。
旅って、いいよね。書いてたら何だか旅に出たくなって来た。夏が終わる前に、カウチサーフィンで一人旅でもしてみるかな。
Saturday, August 28, 2010
The Man Who Fell to Earth
NYからやって来たファイアーダンサーのMasaeちゃんがSFでセミナーを行い、その模様をカメラで収めてきました。本人の弾けるエナジーは勿論良かったですが、会が進むにつれ、参加者の皆さんが能動的に彼女と情報を交換しながら自身を解放して行く様を観るのは中々興味深く、良い刺激を貰いました。まゆみちゃん、ひろみちゃん、そしてまさえちゃん、どうも有り難うございました。
さて、そんなこんなで合計3時間近く回したビデオのフッテージを全て観なければならないのも、この商売の辛い所。いつも撮る時は撮りこぼしの無い様に、そしてエディターに少しでも多くの選択肢を与えたいと思う親心(?)も手伝って、ついつい長めに回してしまうのだが、最近大学にまた行き始めた事もあって、忙しい毎日。昨日も夜9時まで学校行って、10時帰宅、そこから全てフッテージをチェックしてメモとって、早めに終わっても1時過ぎか〜。でも自分の時間もちゃんと持ちたい。ん〜、やっぱビデオ1本観ようっと。でも、終わったら4時過ぎちまうな。
前回に引き続き、Nicolas Roegの映画が観たくて帰り道にビデオ屋をdigしてたら、あったあった。流石はLost Weekend。
David Bowie主演のSF、The Man Who Fell to EarthがBlu-Rayで入荷してた。当然観るでしょうよ。
その男は、New mexicoの山中に居た。いつやって来たかも分からない。彼は人里へ降りてきて、社会に参加しようとする。
見た事も無い製品のパテントを取って、あっという間に彼はアメリカでも有数の富を築き上げる。しかし他者は皆、彼の事を詮索したがったり、疑い深かったり、性に溺れていたり、陰謀を巡らせていたりしていて、それらをまともに受け取ってしまう敏感な彼には、都市生活は消耗が激しく、すぐに逃げる様に隠遁生活をする様になる。
人知れずNew Mexicoに戻って来た彼は、場末のホテルに投宿し、世話焼きなメイドのMary Louに一切を任せて暮らし始めた。
他者との直接的なコミュニケーションを絶った彼はテレビに異常な執着を見せ始め、ホテルの部屋に何台ものテレビを持ち込み、一日中それらを眺める様になった。テレビが見せる人間の本性。世界は暴力と欲と性に溢れ、それらは彼の意識に入り込んで離れない。あまりに大きな他者のエゴに押しつぶされそうになった彼は、ある決断を下した。その持てる富をつぎ込んで彼が行った事とは。。。。。
80年代以降のサイバーパンクをベースにSFというジャンルを見て来た俺には、どうしても「SFとは、現在をベースに捉えた上で未来の社会を描き出す思考実験」という思い込みがある。その部分をどれくらい忠実に描き出せるかがSF作家の腕の見せ所でもあるわけで、そこを追いかけながら読んだり観たりするのが楽しいのも事実だ。
しかしこの作品やホドロフスキーのエルトポの様な、全く違う世界を描くSFもあって、こういった作品はメタファーとして仮想の世界を舞台にしている場合が多く、得てして芸術性が高い場合が多い。この映画はその最たるものの一つと言って良いと思う。物語が進むにつれて不可思議になって行くテーマ、その流動的なテーマに合わせてクルクルと変わる作風。一本の映画なのに、まるで何度も違う作品を見せられている様な、不思議な感覚。時に学生が16mmで撮ったかのようなザラついた実験映画の様であり、またサイケデリックでロックな映像かと思えば、フィルムノアールのようなハードボイルドの世界だったりもする。そして、その全てのスタイルを見事に演じきっているBowieは、タダモノじゃない。これが映画初主演というんだから、すげえ。
観ながら先を想像するという、普段どうしても無意識に行ってしまう作業は完全に無意味で、それを放棄させられる映画だった。
海外に流れ着いて、この映画を観ると、感慨深いものがあった。
絆とか、故郷とか、過去と現在と未来とか、一人で生きるってこととか。
「今日は死ぬのにいい日だ」という感覚を失って生きていては、いつ死んでも悔いが残る。
Be Here Now が一番大切なのは間違いないけど、目標を持って生きる事も大事。でも、未来に理想を求めると、現在の価値を見落としてしまいそうになるからね。その失敗は、昔やったし。
そんな時のアファーメーションは、「相手を思いやる優しさを失わず、自分を一番に思える強さを持つ事」です。まさえちゃん。
Wednesday, August 18, 2010
Walkabout
ケミストリーとは、不思議な物だ。それまで狂おしい程に思っていた相手が、急に特別でなくなったり、今まで全くの知人や友人の一人と思っていた人物が、急に輝いて見えたりするのだから。
生きている内に、そう何度も経験する物ではないけれど、それを感じた時、自分の事がケモノに思えた。なぜなら、いくら言葉で説明しようとしても無理だという事だけが、それについて言葉で説明出来る事だからで、それは完全に理屈を超えた感覚の話。
しかし逆に、そこにまた人間らしいところが関わって来たりする。このケミストリーを起こしたり失ったりする原因は、その相手とのコミュニケーションにあるわけで、その部分は完全に理屈の世界だったりする。たとえば、カッコイイとか可愛いとか、優しいとか頭がいいとか、そういう事だ。人間とは、なんと矛盾を孕んだ生き物だろう。
そこで先のリンクで Breaking up(別れ)を見ると、興味深い事が書いてある。Equity theory(男女間での報酬とコストが等価である事)によると、If a person in the relationship feels that the personal costs of being in the relationship outweigh the rewards there is a strong chance that he/she will end the relationship. と、ある。翻訳すると、恋人同士のうち一人が、その関係を続けて行く上で支払う犠牲(コスト)が報酬 (喜び等)を上回る時、別れという選択をとるチャンスがある、という事らしい。
何とも学者らしいカタい意見で、こいつ本当に恋愛した事あるのかなあ?と思わされるが、一歩引いて俯瞰で見た時に事実こういう部分はあると思う。誰でも自分が一番かわいいし、それを非難する事は出来ない。気持ちを尊重して、自分が損しながら関係を続けていても、結局、熟年離婚する夫婦みたいに続かないしね。そういった意味で、コミュニケーションとは、いつでも抜き身で向き合う真剣勝負の様なもので、お互いの力が拮抗している間はお互いの事を認め合えるという事なのかもしれない。
そんなケミストリーは、人が一生において咲かせる数少ない「花」のようなものだ。当然、その花を讃えるべく古今の人々が唄を歌い、詩を詠み、本を書き、映画を作って来た。しかしこれが、往々にしてラブストーリーという形をとるわけで、そうなるとどうも俺のテイストに合わない。何かこのケミストリーが垣間見せる「野生の不思議」みたいなものが描ききれている感じがしないからだ。ラブストーリーは、何だか人間っぽすぎて、リアルじゃない。でも、この映画 Walkabout は違った。
二人の兄妹は、車で父親に連れてこられた荒野に居た。突然彼が二人を殺そうとしたため、二人は着の身着のままで砂漠を彷徨う事になる。二人は都会育ちの白人で、自然の中で生き延びる知恵を持たない。乾き、飢えた二人の前に、アボリジニーの青年が現れ、食物を与える。
アボリジニーには、子供の時から聴かされる歌があり、その歌は「先祖の足跡」として伝わる口頭伝承の歴史だ。彼等は、ある年齢になった時に、誰の助けも借りずに荒野を彷徨い、生き延びて村に戻るという伝統があり、それを英語で Walkabout という。ときにそれは半年にもなる長い旅。「先祖の足跡」はオーストラリア大陸の広大な土地を説明しているとされ、彼等はその歌を歌いながら、それを頼りにDream lineと呼ばれる道を辿って旅をする。彼はその途上にあったのだった。
三人は、彼の知恵を助けに荒野で生き延び、旅をする。全く言葉も通じない同士ながら、心を通わせる三人。やがて姉と青年は動物的な感覚でお互いが求め合っている事に気がつく。伝統に基づき求愛のダンスを踊る青年。しかし彼女は最後まで首を縦に振らなかった。なぜなら、時を同じくして彼等は文明の端にたどり着いたため、彼女の意識は、また文明社会へとスイッチしてしまったのだった。
皆、それぞれの世界へと帰って行き、時は流れ、ただ心の奥底に、あの時感じたケミストリーだけが残った。
人にはそれぞれ、自分が属する集団があり、それは時と場所で変わっていくもの。この二人は、魂で愛し合えたけれど、人間が社会的な動物である以上、共に暮らせないのは仕方が無いのだろう。そして、動物的な感覚で求め合っておきながらも、社会的な感覚に目覚めた彼女が彼を拒絶するあたりが、人間の矛盾を衝いていて面白い。
そしてやっぱり、そこに鈍感なのは男で、そんな男をあっさりと切ってしまえるのが女なんだよなあ。
ところで、さっきの『別れ』の部分の最後にこう結んであった。
This also may go for the rewards outweighing costs in some cases. Breaking up can have intense emotional effects on people.
つまり、「場合によっては、報酬が犠牲を上回る時に別れを選ぶ人もいる。別れは過剰な感情の動きをもたらす。」という事らしい。幸せすぎて辛い、という事か。
ノルウェイの森かよ。バカバカしい。Fuck it.
こんなもん読まないで、Walkabout 観ようね。
Friday, August 13, 2010
Bottle Rocket
このところ、Werner Herzog の古い映画ばかりまとめて借りていたので、ざらついた画とダークな世界にどっぷりだった。宇宙や自然と、それと対峙する人間を通して真実を見つめようとする彼の視線には、いつもそのヘヴィなテーマとは何か対照的な、人間愛に溢れたヒューモアが見え隠れして思わずにっこりさせられるのだけど、さすがに毎日観るのはキツい。今日は何か清涼感のある映画が観たいと、近所のLost weekend videoに物色しにいった。そうそう、清涼感のある映画といえば、やっぱ Wes Anderson だよな〜、と名前を探していると、彼の長編デビュー作「Bottle Rocket」がブルーレイで入荷してる!!迷わず借りて、速攻帰宅。昼にファーマーズマーケットで買った桃でも食べながら、ゆっくりしますか?
Anthonyは、地元を離れてアリゾナの保養施設に居た。彼にはちょっとハイパーな友達が居て、名をDignanという。彼等ともう一人、Bobの三人は、どこか憎めない間抜けな泥棒。といっても、別に本当に泥棒なのではなく、三人はそれぞれ典型的な裕福な家庭の出で、お金が目的なのではない。彼等はテキサスの新興住宅地に暮らす、人生に苦も無ければ楽も無い、明日の心配も無いけど未来の夢も無い、そんなイマドキどこにでも居そうな若者(映画は96年公開だが、イマドキ多そうな人間を描いているのが興味深い)。
ボブは兄貴がギャングで、いつも兄に対して「俺だっていつかは」とコンプレックスを抱いて生きている。
ディグナンは夢想家のほら吹き。自分の願望を、さも現実の様に喋ってしまう。
そしてアンソニーは、そんなディグナンの無謀とも言える活発なエナジーに憧れを抱く、積極性に欠けるフツーの男。
ある日、ディグナンがアンソニーを迎えに病院にやって来た。その帰りの道すがら語られる、次の計画。アンソニーにとって、それは何でもよかった。ほら吹きディグナンと、一緒にバカな事を一心不乱にやるという事、それがアンソニーにとって唯一の心躍らせる瞬間だった。アンソニーの実家に空き巣に入り予行演習を済ませた彼等は、地元の本屋に強盗に入る。その成功の祝杯をあげる時、隠れ家にしていたモーテルで、アンソニーは初めて自分から積極的に動きたいと思わされる出来事と出会った。美しいメイド。南米からやって来た英語も喋れない彼女と、彼は言葉を超えた恋に落ちる。しかし、なぜかディグナンは彼の初めての自立を祝福してくれない。深まる三人の溝。そして時は経ち、、、、、、。
これといって派手な事件もなければ、哲学も思想も無いこの映画。でも三人のそれぞれのキャラと、それが織りなす人間模様はどれもすごく make sense で、大なり小なり見覚えのある誰かに似てる気がした。
きっとアンソニーは、平凡な自分の人生に華を添える方法を知らなくて、出口の無い閉塞感に捕われてる。どうやっても人生は想像の範囲内で、その外側が想像出来ない。だからきっと彼にとってディグナンの存在は、その檻をぶち破るための鍵なんだと思う。
ディグナンは夢想家で、いつもエキサイトして暮らしているけど、きっとそれは友達と何かをやっていたいだけで、子供の時の感覚の延長なんだと思う。
ボブだって力が無い訳じゃないし、本人もそれを知っているけど力の出し方とその場所が分からないだけなんだ。
自分にも、こんな三人組になった事、昔あった気がする。
もしかしたら、今もそうかもしれない。
でも、大人になって学んだ事は、一人で全部出来る力がなければ、何かを人とやる事は出来ないという事。
ディグナン観てると、懐かしくて悲しくて、でも笑えるんだよね。
Wednesday, August 4, 2010
Beautiful Islands
1日から3日まで、ある番組の取材で南のサンルイスオビスポまで車で行って来た。サンフランシスコはいつもの通年変わらぬ曇天だったが、国道101号線を南に20分も下ると西海岸特有のカラッと乾いた夏だった。特にギルロイを過ぎてからの2時間程の道のりは、どこまでも続く小麦色の斜面。まるで芝刈り機で奇麗に刈り込んだかの様な牧草地が、気の遠くなる様な広大な範囲に広がっている。この先、Morro Bay という街に住む取材対象者へのインタビューだった。この場所は州立公園になっていて、大きな一枚岩の前にユニークな植生の森と入り江があって、豊かな自然が残されている。今回は、カメラと音声さんは日本からやって来ていたので、俺はアシスタント兼ドライバー。二人は息の合ったコンビで仕事もスムーズで、見ていてすごく勉強になった。細かい技とかでなく、撮影全体のスムーズ感が居合わせてて気持ちよかった。そんな二人が撮影した映画が先日公開になったそうで、俺も予告しか観てないけれど良さそうなので告知。
Beautiful Islandsは、地球温暖化の為に近い将来海に沈んで消えてしまうと言われている3つの島々を巡ったドキュメンタリー。静かに暮らす島の人々は、自然と共に何千年も変わらぬ暮らしをして来た。しかし産業革命以降の工業化で、見知らぬ土地が生み出す欲の権化「二酸化炭素」が、彼等から島を奪い去ろうとしている。文化や伝統、そこに暮らす人々の絆などの「失われて行くもの」をカメラに収めたと、カメラの南さんは言っていた。警鐘を鳴らす意味でもっと衝撃的な映像は沢山あったけど、殆どカットだったそうで、そうする事でより静謐なトーンに仕上げ、全体に重みを持たせてあるという。秘すれば華、という事だ。監督はNHK出身の女性、海南友子さん。プロデューサーは是枝浩一さん。歩いても歩いてもは、俺の2008年のベストでした。
インタビューや道中などの撮影はVaricamで、据わりのイメージショットは5dmkllでと、画の質を変えての撮影で、なかなか凝った事やるんだなーと感心した。上がりが今から楽しみ。しかし、すごい時代になった。Varicamの1/10くらいの値段で買える5dmkllの方が奇麗な画が撮れるんだから。いよいよ誰でもアイディアとちょっとした知識さえあれば映画が撮れる時代になってきた。自宅のガラージで録音した音源を部屋のパソコンで編集して、itune music storeで配信というプロモーションもデストリビューションも要らない流れ、既に音楽が辿った軌跡。ビデオも同じ方向に向かってる。HD cameraで撮影したフッテージを自宅パソコンで編集、YoutubeかVimeoで配信。全部タダ。もちろん、そこからお金作り出そうとしたら、もうすこし頑張らなきゃだろうけど。
こうして、一昔前には専門家でなければ出来なかった事がドンドン素人でも簡単に出来る様になってきたら、この先どうなっていくんだろう?世の全ての人々が表現者たり得る世界?
勿論、新しい技術が安価に誰にでも享受出来る世界は素晴らしいけれど、こういった単純に価格で商品価値が測れなくなった状態は、資本主義の終焉が近い事を示していると思う。カメラ、自動車、家電品やパソコン等、商品開発に莫大な設備投資と研究開発が必要な物は、商品の消費サイクルが早くなりすぎて、商品化した時点で既に最先端では無いという事が起こりうるし、それだけのリスクを取って開発しても一旦市場に出してしまえば、すぐに中国製韓国製の安価なコピー商品が作られ、駆逐されて行く。SONYが、有機ELテレビの販売から手を引いた。理由はネットの規制に対応してない為とされているが、結局この新商品も単発で終わった。SONYとしては、復活の旗印としたかったようで、これも市場が飽和状態である事を示している例だと思う。企業が一生懸命頑張ったところで、消費者が「もう今のままで充分じゃん」と言ってしまえばそれまでなのだから。競争原理に基づいた社会や、消費と製造に基づいた社会というのに、もうそろそろ皆が飽きて来ている。
企業の皆さん、働き過ぎてないか?あなた達が作る程の量の商品を、私たちは必要としていない。供給過多と、過剰な供給にぶら下がって生きている企業人達。しかし彼等の仕事はそのうち、先述の様な彼等自身の生み出した技術の恩恵を受けた消費者達のクリエイティビティによって駆逐されて消えていくだろう。高度な分業化は終わり、ゆるやかなマルチタレントの時代へ。
羽田空港が10月に国際空港になるそうで、先日新ターミナルが落成して公開された。でも、既に予想されているキャパをさばききれない事が判明していて、落成時には拡張工事の必要性が語られていたという。一体何でそんな事が起こるのか?その二週間前には、東京成田間を36分で結ぶ京成スカイアクセスが開業。成田エクスプレスも在来線もあるのに、これから縮小が見越されてる空港にこんなに電車必要か?物事のスピードが早くなりすぎて、全てが同時に起きているような不思議な時間の感覚。昔、ぶっとんだ友達が "Everything is happening at the same time." と言っていたが、正にそんな感じ。
真剣に働くのは良い事だし、そこに生き甲斐があるのは素晴らしいと思う。でも、それが競争を伴って必要以上のサービスや製品を生み出し、結果として地球の裏側に居る人達に迷惑をかけるようでは、決して長続きはしない。村上龍が、テレビで「趣味というものがよく分からない。いっぱしの大人ならば自分の一番時間を費やしている事、すなわち仕事が趣味である筈だ」と言っていた。これをプロフェッショナリズムと呼ぶのだとしたら、それはとても悲しい。そして迷惑な話だと思う。こんな人が増えたら、住みにくい世の中になるだろうな、と海外に居る俺は他人事のように思った。
以前紹介した180southのラストでも、patagonia とnorth face の創業者二人が言っていた。
「もし前進という事を話すなら、仮に、真っ直ぐに進んで来て崖の淵に行き着いた時、次の一歩を踏み出す事が前進と言えるのか?今は180度回れ右して次の一歩を踏み出す事が前進と言える時代なのではないのか?」と。
Friday, July 30, 2010
The Great Happiness Space
Watch THE GREAT HAPPINESS SPACE - TALES OF AN OSAKA LOVE THIEF in Movies | View More Free Videos Online at Veoh.com
昨晩は、ケンさん家でロシアンルーレットDVD鑑賞会が勃発。DVDチェンジャーに5枚の中身不明のDVDをぶち込んで、ランダムに観てみるという野蛮な試み。亮君も途中参加で始まった映画のタイトルは、「The Great Happiness Space - Tale of an Osaka Love Thief」だった。
2006年大阪。ナンバーワンホストと、彼を巡る多くの女性客達との疑似恋愛の、奇妙な夜の世界を切り取る中で見えて来た、人間の不思議な心理を捉えた秀逸なドキュメンタリー。一晩で30万40万というお金を落として、全く生産性のない時間を買って行く女性客達。彼女らは、ただ「自分を必要としてもらいたいという気持ち」からホストクラブに通い、売り上げという形で目当てのホストにお金を貢いで行く。しかしそこには当然他の客も居る訳で、より大きなお金を落とす事で他より抜きん出ようと言う、「お金の他に何か価値観を見いだせるような目立ち方知らんのか?」と叫びたくなる様な悲しい競争心を持ってお互いのドラマが螺旋の様に回って行く。あちこちで抜かれるシャンパン。
彼女等の大半は風俗嬢だ。仕事について訊かれると、彼女等は皆そろって自分達の仕事は「慰め」「癒し」「奉仕」だと言う。大阪という巨大都市に巣食う様々なストレス、人間関係や家庭の問題などの、数えきれない人達が作り出した複雑に絡み合った目に見えない重荷を、末端で処理している人達。
彼女等はセックス、つまり本来愛情を持った者同士がその愛の確認の為に行う行為を生業として生きている為、セックスという行為の中に愛情の確認が出来ない。だから逆に、セックスしてくれないホストにプラトニックな恋心を持ってホストクラブに通ってしまう。
仕事に行けば、愛情に飢えた人々が彼女等の元に押し寄せ、愛を乞い、彼女等の体に寂しさをぶつけて帰って行く。他人の寂しさを受け取り、擬似的にでも自分の愛情をふりまいた彼女達は、しかも実際のところ必要とされているのは体であって、彼女達自身ではない事も知っている。体というハコは引く手数多なのに、中身は誰にも求められていないという現実。孤独を抱えた彼女等は、自分達の思う理想の恋愛像を具現化してくれるホストの元に通い、自分に欠けているもの「人に求められているという事」を自らお金で買いに行く。そうする事でストレスを落として行く。つまり彼等ホスト達こそが、この社会の全てのドラマの終着点、末端なのかもしれない。
ナンバーワンの彼は、「客の女性が求める自分」を演じながら生きているうちに、何が本当の自分なのか分からなくなってしまったと言っていた。自分を見失う程にサービスに全霊で取り組む彼は、究極のボランティアだと思う。他の全ての人のようなストレスのアウトプットを持たない彼等は、驚く程自分達のやっている事にアウェアで、かつ真面目にそのサービスに取り組んでいる。その真面目さがかえって彼等の扱っている「孤独感」という商品の深刻さを浮き彫りにしていて、「人間って一体、どうしてコミュニケートしたいんだろう?傷つけ合うのに。」と考えさせられた。
でも、傷つけ合えるくらい真剣に相手と向かい合えるのは、人として優しく、立派な事だとも思う。仮に、彼等の様に全てが嘘だという大前提があったとしても、相手がそれを必要としていて、自分がそれを与えられるなら。
俺には無理だけど。そんなの意味無いし。
同じ傷つけ合うなら、建設的に行きたいよね。
Monday, July 26, 2010
COOL
友達の家でだら〜っとハングアウトしてる時に、完全に自分を投げ出して、ホストにお任せ〜な感じでリラックスするのは最高に気持ちいい。そんな時こそ、ホストのセンスとサジ加減でその夜の気分も変わるもの。
先日は、普段プレステ3のcall of duty, world at warのゾンビモードでゾンビ殺しばっかりやってる(この国では、ナチと日本兵は何の罪悪感も無く殺していいのか?)友達が、珍しく「何かかけますか?」とか言いながらDVDを入れた。それがこれ、Miles Davis at Isle of Wightだった。
1970年8月29日、夕方5時にステージに現れたマイルスに、観客が「何を演るんだ?」と訊いた。
それに答えてマイルスが言った曲名は "Call It Anything." (何とでも呼べ)。
そこから始まったセッションは、メンバー全員完全に宇宙と交信中。
これが5.1chで聴けるんだから、良い時代になったもんだ。
しかし、当時は最終的に製品化する段階で必ずステレオに成る事しか想定されていなかった筈なのに、こうして今5.1chにリミックス出来るってことは、音源がマルチトラックのまま残されてたって事なのかな?もしそうだとしたら、音楽業界の人達は先見の明があると思うし、自分達の作品の価値にアウェアだと思う。文化遺産だからね、こういうのは。
White widow に、強めのコーヒー、Miles Davisな夜。ケンさん、ぶっ飛ばされました。
先日は、普段プレステ3のcall of duty, world at warのゾンビモードでゾンビ殺しばっかりやってる(この国では、ナチと日本兵は何の罪悪感も無く殺していいのか?)友達が、珍しく「何かかけますか?」とか言いながらDVDを入れた。それがこれ、Miles Davis at Isle of Wightだった。
1970年8月29日、夕方5時にステージに現れたマイルスに、観客が「何を演るんだ?」と訊いた。
それに答えてマイルスが言った曲名は "Call It Anything." (何とでも呼べ)。
そこから始まったセッションは、メンバー全員完全に宇宙と交信中。
これが5.1chで聴けるんだから、良い時代になったもんだ。
しかし、当時は最終的に製品化する段階で必ずステレオに成る事しか想定されていなかった筈なのに、こうして今5.1chにリミックス出来るってことは、音源がマルチトラックのまま残されてたって事なのかな?もしそうだとしたら、音楽業界の人達は先見の明があると思うし、自分達の作品の価値にアウェアだと思う。文化遺産だからね、こういうのは。
White widow に、強めのコーヒー、Miles Davisな夜。ケンさん、ぶっ飛ばされました。
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